■マイナス金利に思う

 日本銀行が史上初めてのマイナス金利政策に踏み切った。外国為替市場も株式市場も大荒れである。

 もちろん私は経済の専門家などでは全然ないけれど(むしろ経済の素人ですらない)、この政策は成功しないと思う。
 日本経済は、お金が市場に出回れば景気がよくなるというような単純な構造にないからだ。
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 もう十年以上前になるが、某発展途上国に出かけたことがある。そこでの物売りたちとのやり取りが今だに忘れられない。

 そこそこ魅力的な!土産物を買ってもらおうとがんばっている人たちが、頼みもしないのに値段をどんどん下げてくる。

 こちらは買う気がないのだが、とりあえず眺めてしまって話しかけられてしまったものだから、無視するのも失礼な気がして、「いや、いらないいらない」と言いながらその場を離れられずにいると、「なぜ買わないんだ」「いったいいくらなら買うんだ」と、心底不思議で仕方がないというように尋ねられた。

 「これくらいの金額、あなたにとっては何ということもないだろう」

 私はその時、彼我の感覚の違いが実感としてわかった気がした。今でもたぶん、間違っていないと思う。

 豊かではない社会では、基本的にモノは何でも欲しい。それを手に入れない理由は、出費するお金がないか、出費に見合う価値がないと判断したかのどちらかだ。
 だから、値段がどんどん下がればいつかは買い手の希望と折り合うし、たとえばもしタダなら、何でも手に入れる。

 ところが、豊かな社会では、たとえタダだと言われても、ほとんどのモノは要らない。「そこそこ魅力的な土産物」は、値段がいくらとかいう以前に、どんなに安く買っても、「ものが増えて家が片付かず、よけいごちゃごちゃするだけ」のものになりかねない。

 日本では戦後、消費は美徳から快楽になり、それも前世紀末には終わってしまった。

 今ごろになって時代を巻き戻そうとしても(いや、巻き戻そうとしている自覚すらない重症のような気がするが)、成功するはずがない。
 子どもがこれだけ減って、その数少ない子どもたち自身が二言目には「いらない、いらない」というような社会なのだからなおさらである。
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 私が土産物を見ていたのは、欲しいと思ったからではない。ましてや、欲しいのに高くて買えないからではない。初めて行った異国の文物がそれなりに珍しかったからにすぎない。

 どうせ買わないのなら、相手が勝手に値段を下げていくのを無視して、その場を立ち去るべきだったのだろう。その方が彼らも無駄な労力を使わずにすむ。「失礼にならないように」などというのは、相手のためではなく、自分のための身勝手な論理だ。

 でも、毎日観光客に土産物を売っている彼らは、私に会った時点ですら、「私たちがなぜ買わないか」を理解していなかったのだろうか・・・
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 いくら史上初のマイナス金利政策をとっても、資金は通常の財やサービスの消費に回らない。企業の内部留保や個人の貯蓄として積み上がり、せいぜいで金やプラチナを買ったり外貨を買ったり株を買ったりと、金で金を買うような経済を増やすだけだろう。

 いま豊かな人たちも将来は不安なのだから。
 
 
 
 経済に素人以下の男のタワゴトだ。外れることを願っている。