■異文化間コミュニケーション

 先日、北アフリカ、モロッコの王子が、居並ぶ要人から手の甲にキスされるのを避けるため、素早く手を引っ込め続ける動画をネットで見て、日本語で書かれたそれへのコメントを読んだ。
 (動画はこちら(音が出るのでご注意ください))

 これを見て皆さんはどうお感じになっただろうか。

 動画につけられたタイトルや、転載先のサイトのコメントを読んで、私も深く(どころか少しも)考えずに、「おじさんにキスされるのを嫌がった子どもが手を引っ込めている」という「物語」をナイーブに信じてしまった。
 次々とキスを拒否されるのを見た人たちが、キスを諦めて握手だけにとどめている(ように見える)点も、その解釈を補強した。

 ところが、先週末のニュース番組を見ていると、同じ映像が流れ、この動作は「「私は忠誠のキスに値するような立派な人物ではありません」という謙虚さを示すための行動だ」という解説がなされた。
 成人した王妃?なども同様の理由で手の甲へのキスを回避している映像が流れ、その解釈の正当性を主張していた。

 おそらく、それが正しいのだろうと思う。

 いくら子どもとはいえ、要人から栄誉礼を受けつつ緋毛氈を進むような王子が、そういった公式の場で「『おっさんの忠誠のキス』を全力で拒否」するような振る舞いをするはずがない。

 少し考えれば当たり前のことである。
 ___

 コミュニケーションは、しばしば誤解を伴う。いや、誤解を伴わないコミュニケーションなど、存在しないといってもいいくらいだ。

 それをよく知ったつもりになっており、(仕事上の必要があって)しばしば人にも説く私自身、ともすればそのことを忘れがちになる。

 たまたまあのニュース番組を見なければ、私のつたない脳細胞の中には「おじさんから手の甲にキスされるのを必死で嫌がるモロッコの王子」像が定着してしまっていたかもしれない。

 そんなはずはないのに・・・
 ___

 異文化間コミュニケーションというのは、何も国境を越えた者同士や異言語間のコミュニケーションを言うのではない。当たり前のことだが、実はすべてのコミュニケーションは、異文化間コミュニケーションなのである。

 自分と同じ文化の者など、存在するわけがないのだから。

 コミュニケーションの際に誤解や摩擦を避ける方法は、「相手の言葉や行為を善意に解釈する」ということに尽きる。
 「その原則を少しでも思い出していれば、モロッコの王子に対する失礼な解釈は避けられたのに」と、忸怩たる思いがする。

 問題は、現実の人間や世の中が必ずしも善意で成り立っているのではないということだ。
 その現実に対処すべく、知らないうちに訓練されてきた私たちの脳は、しばしば相手の言動に疑念を抱き、挙げ句、「疎んじられている」「嫌われている」「責められている」「蔑まれている」「妬まれている」(ネガティブな評価はいくらでも浮かぶなあ ^^;)・・・、果ては「だまされている」「陥れられている」「攻撃されている」とまで感じてしまう。
 そして、実際それが正しいこともあったりして、悪意の解釈回路が脳に定着する。
 実に嘆かわしい。

 願わくは、コミュニケーションが誤解や摩擦を引き起こしませんように。
 そのためにも、人も世も善意にあふれ、私たちが何ごとも善意に解釈できるようになりますように。

 無駄な願いと知りつつ、それでも。