★12月のある晴れた午後に100パーセントの女の子と出会うことについて ──Barnshelf の妖精

 ──このエントリはフィクションです。
 タイトルは村上春樹の短編をもとにしていますが、内容は何の関係もありません。
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 「12月のある晴れた午後に100パーセントの女の子と出会うことについて ──Barnshelf の妖精」

 長い間バイクに乗っていなかった。乗れそうな日は、天気が悪いとか何か用があるとかが続いた。たまに何の予定もない休日があっても、どんより曇っていたり寒風が吹きつけたりするようでは、なかなか走ろうかという気になれなかった。「たまにはエンジンをかけてやらないと」などと考えるのは、購入してから初めてのことかもしれない。

 そんなことを考えていた12月のある晴れた日、リビングでブランチをとっていると、いつになく心地よい暖かみに包まれる気がした。南に面した掃き出し窓から差し込む光が背中を温め、足もとにも日だまりを作っている。床暖房も入れていないのに、下から暖かくなってくるのがわかる。振り返って空を見上げると、最近目にしたことのないような青い冬晴れだった。窓を開けても「放射冷却で冷え込んでいる」というような気配はなく、いわば小春日和である。「よし、ちょっと走ってこよう」と思うまで、時間はかからなかった。

 ちょうど気になっていた雑貨屋が兵庫県三田市にあったので、そこを一応の目的地にした。走ること自体を目的にするよりは、その方が少し満足感が高いことは経験からわかっている。バイクジャケットのインナーであるダウンの服をクローゼットから引っ張り出したが、少し考えてセーターですませることにした。
 外へ出ると快晴だった。バイク装備で玄関先をうろうろしていると、少し汗ばんでくるほどだ。それでも、走り出せばすぐ寒さが正面からぶつかってくる。隙あらば前に出ようとする車両の群れを後にし、「道の駅いながわ」を左折して、晩秋の色濃い「北摂里山街道」に入るころには、グリップヒーターのスイッチを入れた。
 まもなく冬だ。いや、今日だけが秋で、もう冬なのだ。

 目的地の Barnshelf(バーンシェルフ)までは、50km足らず、1時間15分ほどの道のりだった。丘の片隅を平地にして砂利を撒いたような駐車場を目にしたときには、すでに通り過ぎそうになっていたので、そのまま進んで次の狭い道に入り、店の東側に出た。バイクくらいならその辺に駐められるかとも思ったが、適当な場所も見当たらず、入口も西側のようだったので、あきらめて駐車場まで戻り、隅の方にバイクを駐めた。他に車は一台もいない。
 煉瓦敷きの歩道を歩いて店に向かう。牛舎を改装した建物だということだが、むしろ廃工場のような佇まいだった。積み上げたブロックに波打ったスレートの壁、無骨な窓。こんな田舎のこんな店に、いったい誰が来るというんだろう? 客もいないようだし、そもそも、営業しているんだろうか・・・

 どこから入るのかもわかりにくく、少し探して PULL と書かれたドアを開けると、外観からは想像しにくい、ちょっとおしゃれな空間が広がっていた。BGMが静かに流れ、コーヒーの香りが漂う。
 店の主人に軽く挨拶してから、店内をまわる。案に相違して、先客の女性が一人、窓際の席に座って何か飲み物を飲んでいるようだった。その近くには若い男性が立ち、私と同じように商品を眺めていた。

 雑貨屋というかセレクトショップというか・・・あとで見たウェブサイトの文言によれば、「古書を中心としたこだわりの本棚と衣食住にまつわるさまざまなアイテムを新旧和洋問わず集め」ている店とのことだが、その言葉通り、まことに「さまざまなアイテム」がとりとめもなく置かれていて、なぜこんなものがここにあるのか、こんなものがここで売れるのかと思わされた。
 靴下や服、台所用品や食器、かばんや文房具・・・なんかが、必然性なく並んでいるのである。極めつけは本で、少ない在庫の中に『フィールドガイド 日本の野鳥』はともかく、「日本野鳥の会」創設者である中西悟堂の本なんかが混じっているのには驚かされた。ちょっと大きな書店に行っても、中西悟堂の本なんて置いてやしない。かといって、この店がバードウォッチングの本を中心に集めているのかというと、そんなこともない。
 本に限らず、衣服にせよ食器にせよ文房具にせよ、どれもが店主の趣味によって選び抜かれたものであるだけに、とりとめなさの中にも奇妙な統一感があって、こんなふうに気に入ったものに囲まれて暮らせたら素敵だろうなと思わされる。「もし自分がこんな店をやるんだったら、どんなものを置くだろう?」などと考えながら、「こだわりの」アイテムを見て回る。
 それにしても、こんな店がやっていけるのか・・・と思っていると、3周年を記念して作ったというカップを見つけた。少なくとも3年以上は続いているわけだ。他にも収入の道があるのだろうか、それとも、まさかこれだけで食べているのだろうか。いずれにせよ、好きなことがあってそれを職業にできる人は幸いだ。

 いつ気づいただろう?

 窓際の女性(というより女の子と呼ぶ方が正しそうだ)がちょっと信じられないくらい綺麗なのである。いや、可愛いと言った方がいいかもしれない。大学生、二十歳くらいか。最初に見たときは確か、携帯電話の画面を見ていた。もう一人の若い男の子とカップルなのだろうが、男の方は、こんな子と付き合える僥倖のありがたみをまったく感じていないかのように、店内をうろうろするばかりだった。
 ふと、女の子が席を立ち、コーヒーカップを持ってカウンターの方に返そうと歩き出した。ちょうど通路にいたぼくは、邪魔にならないように棚の陰に入った。通り過ぎるとき、彼女はちらっとこちらを見て、見ず知らずの他人に接したときのアメリカ人のような微笑みを浮かべた。自然な愛らしさの中に「すみません」という挨拶を含んだその表情は、完璧としか形容できないものだった。後ろで束ねられたまっすぐな細い髪は綺麗に染められているものの、化粧っ気のない肌にはくすみ一つなく、まるで3か月前に生を受けたばかりであるかのような肌理の細かさには驚くほかなかった。

 彼女がいなくなった窓際に遠慮なく近づくと、二人がけのテーブルが一つあるきりだった。ここは一応カフェでもあるはずなのだが、3人以上、あるいはふた組以上の客が来たときはどうなるんだろうと思った。
 席を立った彼女は、男の子やぼくと同じように、店の商品をためつすがめつしている。そのうち「ねぇねぇ、これ見て。かわいい!」などと言い出すだろうと思っていたのだが、相変わらず男の子とはひと言も口をきかない。そのうち、常連らしい男の子はカウンターの前で店の主人と何やら話しはじめ、私と彼女とが別々に品物を見ながら店内を回るだけになった。

 静かな12月の午後だ。

 それにしても、とぼくは考えていた。いったい彼女はどうやってここに来たんだろう? 車にも乗らずにひとりきりで。"in the middle of nowhere" というような表現がぴったりの場所である。新三田駅から歩けないこともないかもしれないが、歩けば小一時間はかかるだろう。

 店にいる間、さらに3回ほど、微妙に目が合う感じになった。店はそれほど広くないのだ。
 目が合うと、彼女は例の完璧な微笑みを浮かべる。もしかしたら、アメリカかどこかに住んでいたことがあるのかもしれない。彼の地では、敵意がないことを見知らぬ異文化の人に示すために互いに微笑む習慣がある。
 ただ、彼女の微笑みはアメリカ人のそれよりずっとやわらかくて暖かいものだった。ぼくには同じような微笑みを返すことなどとてもできない。なんだか、とても失礼で申し訳ないことをしているような気分になった。
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 プラハの美術館で傑作を前に嘆息し、だれかにその感動を伝えたくなったときのように、彼女が信じられないくらい愛らしいことをだれかに伝えたくなる。だが、伝えるべき人はだれもいない。いやいっそ、彼女自身にそのことを何とかして伝える方法はないかと思案する。だが、そんなものはもちろんない。それどころか、なるべく彼女の近くに行かないように、彼女の方を見ないようにしながら、自然に品物を吟味しているふりをするのが精一杯なのだ。
 もとより、彼女を讃美しても何の意味もない。こういう美貌に生まれつけば、褒め言葉には小さいころから慣れているだろうし、同じことならせめて同世代の素敵な男の子から聞きたいはずだ。ヘルメットのせいで髪の毛がぺしゃんこになった、ぼくのような年齢のバイク乗りに褒められることは、彼女の豊かな気分には間違いなく結びつかない。

 店内のものはあらかた見尽くした。このままこの空間にとどまっていたいような気はするものの、ここにいてもどうなるものでもない。ぼくは店主に目礼を送って店を出た。入るときは気づかなかったが、出てすぐ左手に、シルバーのロードバイクが置いてあるのが目に入った。ハンドルにはヘルメットがかかっている。なるほど、彼女はこれで来ていたのか。サイクリストなんだ・・・
 が、彼女の自転車にしては少し大きすぎることにすぐ気づいた。彼女はかなり小柄で、たぶん、153cmくらいに見えた。高くても157cmといったところだろう。サドルを上げたこのサイズの自転車に乗るにはちょっと小さすぎる。これはたぶん、もう一人の男の子のものに違いない。
 じゃあいったい彼女はどうやってここに来たのだろうか・・・ その謎を抱えたまま駐車場に向かう。相変わらず、ぼくのバイク以外は一台も駐まっていない。

 時刻は3時半に近づいていた。一年のうちで日暮れがもっとも早いのは冬至ではない。日没がもっとも早いのは12月上旬、日の出がもっとも遅いのは1月初旬だ。5時にならないうちに沈んでしまう太陽は、もう地平線を目指して傾き、道路は茜に染まりはじめている。振り返ると、素朴で無骨な牛舎の店舗を夕日が妙に絵画的に照らしだしていた。背後には赤茶けた木の上に透明な青空。
 美しい・・・と思ったぼくは、胸ポケットからカメラを出し、その絵画的な風景を記録に残すべく、何枚かシャッターを切った。ちょうどそこへ彼女が出てきたのでカメラを降ろしたが、彼女はぼくに気づかない様子で(したがって例の微笑みも浮かべずに)道路の方へ出てきた。途中で一度、西の方(ぼくのいる方だ)を見て眩しそうに目を細めたあと、ぼくとは反対の方へ歩いて行った。駅に向かう気もないらしい。いったいどこへ行くんだろう? まさか、この近所にでも住んでいるんだろうか。

 もう絶対に、一生会うこともないんだよなあ。今日だって、とても会ったとは言えないんだけれど、それでも、ほんとにいろんな偶然が彼女とぼくを同じ時間の同じ場所に運んできて、少なくとも一時は顔を合わせたのだ。だが、12月のある晴れた午後に出会った100パーセントの女の子を、ぼくはもう、たぶんではなく絶対に、見かけることすらないのである。
 そんなことを考えながらバイクに向かい、一度だけ振り返ると、ちょうど彼女が中央分離帯を越えて広い道路を渡るところだった。道は立派だが、交通量はほとんどない。すぐ向こうの交差点を彼女が右へ折れてしまえば、それで永久にさよならだ。

 駐車場に戻り、支度をしてからバイクで東へ走りだすと、さっきの店を過ぎてすぐ右手の歩道に、彼女が立っているのが見えた。えっ、どうして?と思った後すぐ、迎えの車を待っているのだろうと考えた。だが、よく見るとそこはバス停のようだった。なるほど、バスがあるのか。向こうの車線を走るバスなら、新三田駅へ向かうだろう(後で調べると、彼女が待っていたのは一日に!3本しかないバスの最終便だった)。

 もう二度と見かけることすらないと思った彼女を、直後とはいえまた見かけたことは、ぼくを動揺させた。でも、「これは小説の中の出来事じゃない、現実なんだ」と思い直し、彼女の横を通り過ぎて次の交差点を通過した。しかし、さらに次の交差点を通過したところにある小学校の前で、ぼくは自分でも気づかないうちにバイクを左に寄せて停めていた。
 今からUターンすれば、反対車線でバスを待つ彼女の前に戻れる。「さっきの店、どうやって知ったんですか?」「わざわざ電車とバスを乗り継いできたんですか?」「どちらからいらしたんですか?」「いや、あの、ぼくはこういう者で、怪しい者じゃ、あ、ごめん、すでに怪しさ全開ですよね」・・・ありえない。見ず知らずの女の子に声をかけたことは、これまで一度しかないのだ。

 後ろから車が来ていないのを確認すると、ぼくはゆっくりとバイクを発進させた。もちろんUターンなんかしない。「これで彼女からどんどん遠ざかってしまう」と考えながら速度をあげていると、彼女をどこか遠くへ運び去ってしまうことになる、懐かしいオレンジ色のバスとすれ違った。