★ひとごと

 能登半島の輪島に行ったとき、「能登半島地震」による被害とその後の復興への言及が多いのに気づいた。
 ある漆塗りの店は、全壊から再建して今に至ったということを積極的に広報していた。

 まことに心苦しく申し訳ないのだが、当初は「能登半島地震? そんなのあったっけ?」という感じだった。
 調べてみると、2007年3月25日に、最大震度6強の地震が起こり、死者1人、負傷者356人、住家全壊684棟、半壊1733棟の被害を出しているという(コトバンク)。

 たいへんなことがあったんだなあと思うと同時に、「死者一人では、記憶になくても不思議はない」と思ったのも事実だ。かえすがえすも申し訳ない。
 亡くなった方にとっては、これほど重大なできごとは他にないだろうし、家族や親戚、友人知人にとっても大変な悲劇であったに違いない。
 負傷者の方々も大変な思いをされただろうし、怪我によってその後の人生が変わってしまったかもしれない。
 物質的な被害「だけ」だった場合ですら、金銭的のみならず、精神的ダメージも多大であっただろうと想像される。

 それでも、7年後の関西在住者は、そんな地震があったことすら覚えていない。被害直後の報道以外は、マスコミからも忘れ去られたためでもあろう。

 調べるうちに、能登半島地震があったこと自体はおぼろげながら思い出したような気がする。だが、たとえばそれより前に起こった新潟県中越地震(死者68名)の山古志村に関するような記憶はやはり出てこない。

 しょせんは「ひとごと」なのである。いや、中越地震にしても、もちろんそうだ。それどころか、個人的に計何百万円の間接的「被害」を受けた東日本大震災ですら、あるいは、家族・親戚が大変な目に遭い、自宅にもそれなりの被害があった阪神淡路大震災でさえ、である。

 こういう「ひとごと視」は、生物としての防御反応なのではないかとしばしば思う。人の生き死にや金銭的・精神的被害にいちいち共感していたのでは、とても身が持たない。それどころか、自分自身に降りかかったできごとですら、深刻に捉えていたのでは大変なことになってしまう。

 ロシアがウクライナに侵攻しようが、ISISがテロ行為を繰り返そうが、エボラ出血熱で死者が出ようが、日本各地で土石流が暴れようが、その報に接したときにはそれなりの思いはあるものの、5分後には(あるいは同時に!)淡々と食事をしている。
 何とかしたいと思っても、世界はあまりにも多くの悲劇で満ちあふれ、日々新たな災厄が襲ってくる。

 とりあえずは、ある程度真剣に嘆き、悲しみ、あるいは怒る。不条理を呪い、神が存在しないことに絶望する。
 だが、すぐに「ひとごと」と切り離し、後はちょっとした感傷的記憶となる。繰り返すが、自分の身に起こったことでさえ(それが現在にまで重大な影響を及ぼしていなければ)「ひとごと」だ。
 能登半島地震のように、そんな記憶にすらなれなかった悲劇もある(ほんとにすみません)。

 ときどきこうして、「薄情な奴だなあ」と自分に幻滅するのだが、もっと立派な人にはなれそうもない。これくらいがちょうどいいからこそ、何とか今日までやってこられたのだと思う。もしそれを責められたら、黙って頭を垂れるしかない。