★また冤罪

 いえ、和歌山カレー事件の話ではありません。

 1990年に栃木県足利市で4歳の女の子が殺された事件

 最高裁まで争って無期懲役が確定し、現在服役中の受刑者が申し立てていた再審請求の即時抗告審において、有罪の決め手となったDNA鑑定を覆す再鑑定結果が出た。

 検察側・弁護側がそれぞれ推薦する鑑定人の双方が、女の子の着衣に着いていた体液と、受刑者のDNA型が一致しないという判断を下したという。

 この事件では、ずっと冤罪が言われてきた。

 にもかかわらず、逮捕から十数年、無実の受刑者は、ずっと身柄を拘束されたまま、現在では無期懲役囚として「懲」らしめのための労「役」につかされているのである。
 何のために懲らしめられているのか。

 冤罪は、国家による犯罪の最たるものである。

 被告本人や周囲にとってこれほど無念で恐ろしいことはない。

 無実の人に怒りを向けてきた被害者や関係者は、その感情の持って行き場がなくなるばかりでなく、真犯人の追求に費やされるべき労力が、無実の人に罪を着せるために使われていたことを知る。
 そのせいで犯人は野放し、今回の件で言えばすでに時効が成立している。

 「犯人野放し」は、この事件とは直接関係のないわれわれでも、もちろん看過できない。
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 やる気のなかった一審の国選弁護士を一喝して、控訴審から弁護士を引き受けている佐藤博史氏は、「金太郎飴のように、どこを切っても無罪の結論しか出てこない事件だ」とかねてから訴えている。

 その再審請求すら地裁は棄却し、このたびやっと、東京高裁がDNAの再鑑定を認めてくれたのだ。

 東京高裁の英断(というか当然の判断)には敬意を表したいが、無実を示すさまざまな証拠を提示して、精度の低かった当時のDNA鑑定を現在の技術で検証してほしいという希望が、どうして地裁では棄却されたのか。
 どういう結論が出るかは別にして、やってみればいいだけの話なのである。

 穿った見方をすれば、確定判決の誤りが白日の下にさらされるのを避けたかったのかとすら思える。
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 ともあれ、この国の司法制度が、ぎりぎりのところでまだ機能しているのを目にしたことには少しだけ安堵した。

 無実の受刑者が希望を奪われた刑務所で長年にわたって理不尽に懲らしめられ、真犯人は取り逃がし、何より、被害者や関係者が浮かばれない結果となってしまった「国家の犯罪」は残るとしても。