■1995年1月17日に寄せて

 阪神淡路大震災から20年経った。
 当時2歳3か月になっていたのに、まだほとんど一言も喋らず、発達の遅れを心配していた息子は、春が来れば大学4年生になる。それくらいの月日が経った。

 今ゆっくり何かを書いている余裕はないけれど、震災の数年後に書いていた小説(笑)の一部がハードディスクに眠っているのを思い出したので、ここに掲載することにする。
 世に出る可能性はないが、ディスクの肥やしにしておくのはちょっともったいない気がしたので・・・

 念のため、以下はあくまでフィクションである。ぼくに娘はいないし、妻は○○だ。義父母は神戸に住んでいない。
 だが、ほとんどは当時の実体験に基づいている。
 あくまで断片なので、始まりも終わりもない。やや長いが、ご笑覧いただければ幸いである。

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 ぼくは阪神大震災を経験している。あの震災については、あらゆる人があらゆるメディアを通して活発に発言しているので、いまさらぼくがとりたてて述べることはあまりない。ぼくではない、もっと力のある人なら、たとえば村上春樹氏が地下鉄サリン事件に関して行ったような、報道の洪水の中にあっても決定的に欠けている種類の発言ができるかもしれない。でも、ぼくにできるのは個人的な体験を少し述べることぐらいだ。
 あの朝、なぜか早く目が覚めたぼくは、もう一度寝ようとして布団の中でまどろんでいた。すると突然、ガーンという音とともに、床が突き上げられた。かろうじて上半身をもちあげたものの、金縛りにあったようにその場から動けなかった。
 「何だ!?」と声に出して叫ぶことはできたような気がする。今思い出すとばかげているのだが、ぼくはとっさに、マンションにミサイルが命中したと思った。不思議に爆弾だとは思わなかった。くっきりと「ミサイル」だった。でもなぜ、こんなところに・・・
 主観的には長い時間を経た後なのだが、実際には数秒後だろう、ぼくにも地震だとわかるタイプの、何度も経験した揺れがはじまった。しかし、揺れ方は経験済みだったが、その大きさははじめての体験だった。
 地震だとわかって金縛りが解けたぼくは、妻を守るためにその上にかぶさろうとして、その姿を探し求めた。隣の部屋で本箱が倒れる音がする。ガラスの割れる音や、何の音とも判断のつかない音が交錯する。妻がいない。布団すらない。もう起きているのだろうか。だとすれば、何かの下敷きになってはいまいか。
 ぼくらの寝室には家具が何もなかった。東京で何度も地震を経験していたぼくは、寝室に家具を置くことは恐いことだと思っていた。それは、関東大震災を経験した祖母のいいつけでもあった。しかし、今のぼくのマンションで、一部屋にまったく家具を置かないことにすると、他の部屋が家具で埋まってしまう。ぼくと同じ神戸出身で、大きな地震など起こらないと思っていた妻は、ぼくのこの用心を「かわいい」といって笑った。
 揺れがおさまりかけ、飛び起きたぼくは、妻をさがして家中歩き回った。床に散乱したガラスで切ったのだろう、足が血だらけになっているのに気づき、その痛みを自覚したときにはじめて、妻はもうこの世にいないことを思い出した。妻が死んで二年あまり、妻のいない生活にすっかり慣れてしまっていたはずなのに。
 ぼくはその朝、久しぶりに声をあげて泣いた。
 地震から三日後、ぼくは妻の実家へ向かってバイクを西へ走らせた。報道によれば、妻の実家周辺は、火災による被害がもっとも大きかったところの一つだった。どうしても連絡が取れないので、まさかとは思いながらも、気になって仕方がなかったのだ。
 途中、地震による惨状は確かにひどかった。壊れたビルや家屋のために通れなくなった道を迂回しながら、西宮市・芦屋市を抜け、神戸市に入っていった。しかし、落下した高速道路や壊れたビルや家屋を間近に見ても、それほどの感慨は抱かなかった。
 それまでの三日間で、ぼくはすでにその種の写真や映像を浴びるほど見ていた。ぼくの想像力が豊かなのか、現実をとらえる感受性が欠如しているのかどちらかなのだろう、無惨に壊れた巨大建造物の実物を見ても、「ああ、これがあれか」というたぐいの感想しか持たなかった。ちょうど、ルーブル美術館を訪れた観光客がミロのビーナスモナリザを見て持つ種類の感想と、それは似ていた。
 しかし、火災で焼け野原となり、濃淡のある墨色の光景が支配する場所に至ったときに、その感想は一変した。さすがに火は消えていたが、そこここからまだ白い煙が薄く細く立ちのぼっている。それ自体は映像で見たのと同じ風景だ。しかし、そこには鼻をつく強烈なにおいがあった。屋根や梁や柱の下敷きになり、生きたまま焼かれた人間のにおいだ。
 あんな形で妻子を同時に亡くしたショックのために、ぼくの記憶から欠落していた妻子の骨拾いのときの風景が、突然目の前に浮かんだ。記憶の底に沈澱していた当時の様子を、においが甦らせたのだ。
 このにおいは、あのにおいだ。ぼくは痛切にそれを感じた。
 もしかすると、別に人間でなくても、ものが焼けて炭になれば、とりわけ有機物が焼けて灰になれば、似たようなにおいがするのかもしれない。しかし、それまでにいろんなものが焼けるにおいを嗅いでいたが、このにおいを嗅いだのは、間違いなく、その日でまだ二度目だという確信がぼくにはあった。
 倒れた電柱やがれきで通れない道を何度も迂回し、なんとか妻の実家のある場所に近づいたが、どこが目的の場所かがわからない。それらしき場所を闇雲に走っていると、ときおり見覚えのある道に出るのだが、なにしろ、建物がほとんど焼失してしまっているため、自分がどこにいるかはっきりとわからないのだ。
 道ばたにペットボトルを並べて「千円」という札を下げていた人に妻の実家の住所を告げて場所を聞くと、
 「おれ、この辺のもんとちゃうから」
と言われた。そのときは何かを考える余裕もなく、なぜペットボトルが千円もするのかという疑問すら思い浮かばなかった。
 そのうち、腕に腕章をつけて道ばたに置いた椅子に座り、二人で世間話をしている自治会役員とおぼしき初老の男たちを見つけたので、同じように住所を告げて聞いてみた。二人は、一瞬黙り込んで顔を見合わせた後、年かさの人のほうが、
 「その辺なあ、この向こう側なんやけど、丸焼けになってしもたとこや」
と、ぼくと目を合わさずに地面を見ながら教えてくれた。
 ぼくは、妻の両親に対して特に親密な感情を持っているわけではない。妻が死んでからは、ほとんど行き来もない。妻と娘の墓に参ると、すでに見事な花が供えられていたことが何度かあり、それでその存在を意識することが多かった程度だ。しかし、その可能性があるからこそここへ来たとはいえ、現場を目の前にして「丸焼けになってしもた」といわれると、ちょっと平静ではいられなかった。
 「それで、あの、もし避難しているとしたら、どこにいるんですか」
 ぼくは、教えられた中学校に向かった。川を越えると目的の場所なのだが、橋の手前がひび割れて、三十センチ近い段差になっていた。少し考えてから、ギアをローに入れると、ぼくはクラッチを急激につないでバイクを急発進させ、前輪を浮かせて通過した。オフロードバイクに乗りはじめて十年以上になるが、いつもおとなしい走り方しかしないぼくがそんな走り方をしたのははじめてだった。
 中学校には、テレビで見たままの光景が広がっていた。実際にここが映し出されたのかどうかはわからない。しかし、校庭の車やテントや焚き火、そして、まばらに、見た目はのんびりと、そこここで立ったり座ったりしている人たちは、テレビで見たのと同じだった。
 体育館の入り口で、ぼくは立ち尽くした。そこにもテレビで見た映像が展開していた。しかし、カメラに写されていたのとは違う被災者たちがそこにはいた。
 広い体育館は人でいっぱいだ。床には隙間のないほど布団が敷きつめらている。しかし、そこには生気というものがなかった。人の動きはあるものの、全体として、そこは死んでいた。「お通夜の席のように」などという形容をよく使うが、そういうのとは違う。ここにいる人たちは、死んだだれかではなく、今現に生きている自分自身を追悼しているように見えた。
 体育館全体を見渡しながら、その雰囲気に呑まれていたぼくは、やっと、この中から義父母をどうやって探せばいいのかという現実的な問題に気がついた。「放送してもらおうか、校庭にいるかもしれないし」と考えてから、それが馬鹿げた考えかもしれないと思いあたった。
 ここに来るまでにも、この辺の信号はすべて消えていた。もしまだ停電しているとすれば、放送などできないだろうし、それよりも、ひっきりなしにここを訪ねてくる誰彼の要請に応じていちいち放送などしていたら、被災者はたまったものではないだろう。
 バイクウェアを着た若い男がいつまでも入口に立ち尽くしているのに気づいた誰かが声をかけてくれるのを、ぼくは待った。ぼくのような立場の者はおそらく何人も来ているはずだから、そういう人がふつうどうするのかを、教えてもらおうと思ったのだ。自分の方からここの人たちに声をかける勇気はなかなか出なかった。
 しかし、いつまで待ってもだれも声をかけてくれなかった。しかたなく、近くの老婦人に、これこれの人をさがしているんですが、どうすればいいのかということを聞いた。我ながら、要領を得ない聞き方だったと思う。ぼくはあまりちゃんとした答を期待していなかったが、老婦人の返事は明快だった。
 「そんなもんあんた、そこへ立って叫ぶしかあれへん」
 この雰囲気の中へ大声を出すのは非常な勇気が必要だった。それでも、一瞬のためらいの後、ぼくは妻の実家の姓を叫んだ。
 「いらっしゃいますかあー」
 その瞬間、なぜかふと冷静になり、姓が田中や山田でなくてよかったと思った。
 人々はのんびりとぼくの方を見た。視線が集まった。そのとき、奥の右手の方で、女の人がふらふらと幽霊のように立ち上がった。義母だった。
 期待していなかった。焼け死んだかもしれない、別の場所に避難しているかもしれない、校庭や校外にでかけているかもしれない、そう思っていた。しかし義母はそこにいた。
 火は隣まで来たが、家は焼け残ったそうだ。「もう住まれへんけど」。お義父さんは、近くにある勤め先に出ているという。「仕事はでけへんけど、せんならんことはぎょうさんあって」。
 ともかく無事をよろこび、「よかったですねぇ」といったとき、ぼくの目には涙がにじんでいた。ぼくはこんなにこの人たちのことを思っていたっけ?
 義母のほうは、きょとんとした顔をしていた。
 お金には困っていないことを確認し、ぼくは、持ってきたカロリーメイトを渡した。自宅も被災地なので、近くの店の棚はどれもほとんど空っぽで、それしか買えなかったのだ。商品のない棚というのは凄みがあった。特に、ほとんど何もないコンビニの棚に、忘れられたようにいくつかまばらに残っている品物のある風景の凄さは、ぼくを圧倒した。
 カロリーメイトは結局役立たなかったと思う。帰り際に気づいたのだが、義母の布団の横には、手をつけていない幕の内弁当が積んであったからだ。全国的に有名になったこの被災地は、被害の大きかった地域の西の端のほうにあたるのも手伝って、西のほうからの救援物資がごく早い時期に供給されていたことをあとで知った。