■政「教」分離

 もろもろに埋もれてあまり注目されていないようだが、大阪府松井一郎知事と大阪市橋下徹市長が大阪府立大学大阪市立大学との統合を進めようとしている。

 各大学の伝統や理念を無視した強引なやり口は、その過程で無用で甚大な混乱を引き起こし(首都大学東京!)、結果もまた碌なものにならないとは思うのだが、ここで述べたいのはそのことではない。

 その統合の機会に、これまでになかった教育学部(教員養成課程)を創設しようとしているという報道がなされた。
 無駄を削るために統合するとかいうのだが、教育学部を作るとなればものすごいマンパワーと予算とが必要となる。だが、それも、百歩譲ってまあいいとしよう。

 しかしながら、橋下氏の次の発言は看過できない。

 「僕や知事が関与することができないまんま国立大で教員が輩出されて、それが教育の現状を招いた。大阪にとって必要な教員をしっかり養成する必要がある」(朝日新聞

 この発言からは以下のことが読み取れる。

・国立大(特に大阪教育大学?)の教育は碌でもない
・その出身者が行う教育も碌でもない
・その結果、大阪の教育は悲惨な現状にある
・「僕や知事」が関与して教員を養成すれば、素晴らしい教員が育つ
・そうした教員こそ「大阪にとって必要な教員」だ
・その教員が教えることが教育の改善に繋がる

 これ以上書くのはやめようか。あまりのあほらしさに、相手にする気が失せてしまう。

 何より、現状や事実の認識、因果関係の認定に何の根拠もない。あるのは愚かな思い込みだけである。
 とりあえず、その碌でもない悲惨な教育を受けて育ったのが橋下徹その人だと指摘するにとどめておこう。あれ?、やっぱり大阪の教育は失敗だったのかな。
 ご本人は「どんな悲惨な教育の中からでも私のような立派な人間は育つ」とでも言うだろうか。

 次に、教育はそれほど簡単なものではないことを改めて思い起こさざるをえない。橋下氏や松井氏が「関与して」「教員」を「輩出」すれば教育が良くなるなんて、いったい氏はどんな全能感をお持ちなのだろう。ことがそんなに単純であれば、世界中の教育関係者はどれほど助かることか。

 大阪教育大学の長尾彰夫学長のお話を朝日新聞から転載する。

教員養成は難しい。大学の成績がよくて、板書などの技術も高い熱意ある教師が、現揚に出て中学生に「おもんないわ、おまえ」とすごまれて1日でペしゃんこになってしまうことがある。そうかと思うと非常勤講師をしながら釣りばっかりしていたのが今、中堅として生き生き働いている。
 私の大学時代の同級生にも、教員として赴任後、何年も経たぬうちに生徒に殴られ、退職を余儀なくされた男がいる。どうすればそうならずにすんだのか、答えるのは簡単ではない。

 さて、橋下氏のいう「教育の現状」とは、文科省が実施した試験で大阪の平均点が低いことを主に指しているのだと思うが、それは教師の力量の問題ではなく、経済的な困窮や家庭環境が主たる要因である可能性も高い。
 それに、実は、単に集団の「学力」や成績を上げるだけなら、それほど難しくはない。
 しかし、多くの場合、それは見過ごしがたい副作用を伴ってしまう。その副作用に目をつぶっていいのなら、ほとんどの教師は平均点を上げることぐらいはできるはずだ。だが、良心がそれを許さないし、上がった点数がほんとうの学力の伸びを表しているとも限らない。

 橋下氏がどんな素晴らしい教員を作れると自負しているのか知らないが、本気でそう思っているとすれば、あまりに幼児的な誇大妄想だと言うしかない。ふたたび、長尾学長の言葉を借りよう。

私は学生に「大学では30年間教員をやり続けられる基礎体力をつけておきなさい」と言っている。それは幅広い教養と豊かな人格だ。生身の人間が生身の人間を教えるには、学力を上げるテクニックだけでは続かない。
「幅広い教養と豊かな人格」・・・ アルバイトから数えると、それこそ30年の教員生活を続けてこられた私にも、もちろんそんなものは備わっていない。だが、教育にもっとも必要なのは、そういう種類のものであることに異論はない。

 最後に、(たぶん)もっとも大切な点について述べよう。

 それは、政治が、しかもほとんど政治家個人が、教育を思いのままに操ろうとしている暴挙についてである。今回の「教育学部創設構想」が、他の都道府県に例のない「教育基本条例」案ともリンクしているのは明らかだ。
 長尾学長は「維新の会の言うことを聞く教師を作りたいという意図なら、おかしい」とおっしゃっているが、まさに「僕」「の言うことを聞く教師を作りたいという意図」が明確に見える。

 政教分離の原則というのは政治と宗教のことだが、政治と教育も同様に分離しなければならない。近代日本に例をとれば、古くは福沢諭吉もその重要性を述べている。
 政治と宗教と教育とを一体化して破滅へと突き進んだ反省に基づいて制定された、戦後の教育基本法も、改悪を経てなお、政治や宗教と距離を置いている。

 そもそも、「僕」が「関与」して教員を作りたいなどという政治家は、いったいいつまでそれを続けるつもりなのだろう。また別の政治家が知事なり市長なりに選ばれ、ぜんぜん違った教育を始めると言い出せば、再度違う教員を作り直すことになるのだろうか。
 諭吉の言葉を借りよう(「福沢諭吉教育論集」岩波文庫青空文庫より))

教育の効の緩慢にして、ひとたびこれに浸潤するときは、その効力の久しきに持続すること明に見るべし。
政事は政事にして教育は教育なり。その政事の然るを見て、教育法もまた然らんと思い、はなはだしきは数十百年を目的にする教育をもって目下の政事に適合せしめんとするが如きは、我が輩は学問のためにも、また世安のためにもこれを取らざるなり。

 畏友のブログで知ったのだが、橋下氏は「区長は僕の代わりで、僕だったらどうするだろうと考えて思いっきりやってほしい」とのメールを区長に送ったという(yomiuri.co.jp)。
 そういうのを「思いっきり」というのだろうか。
 この「区長」を「教育長」や「校長」、「教師」に置き換えても、氏の言いたいことが同じであるのは間違いない。

 誇大妄想狂的な全能感を持ち、世の中のあらゆることを自分の思うがままにコントロールしたいという醜い欲望を、あろうことか教育にまで広げようとするのは、いくら何でも勘弁してほしい。