◆いのちの食べかた

 ちゃんと見たことはないのだが、チャップリンの『モダン・タイムス』を髣髴とさせる。
 ポスト・モダン・タイムス、というところだろうか。

 だが、これはドキュメンタリーであって、風刺を意図したコメディでもフィクションでもない。

 モダン・タイムスで描かれていたのは、オートメーション工場に代表される第二次産業だと思うが、この映画では、第一次産業においてすら、労働や生産といった行為が「疎外」されている状況が活写される。

 そうして生み出された農産物(牛や豚や鶏も!)を処理し流通させる過程では、「疎外」はいっそう深刻になる。

 「農業の機械化」などといった言葉では表現できないグロテスクなまでの現実を、異形のロボットもどきが忠実に働いているさまを通して静かに映し出す。

 人間もまた、人間のままでいたのでは到底行えないような作業を淡々とこなしていく。

 そこでは、動物も植物もモノとして扱われ、われわれの毎日の糧へと姿を変えられていくのだ。
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 農薬は空中散布され、水はスプリンクラーで撒かれる。
 収穫は車を走らせれば自動的に終わる。人の手になる収穫も、レールの上を移動しながら無感動に行われる。

 牛を立たせたまま帝王切開する光景。
 大量のひよこはベルトコンベヤーの上を流れていき、そこここで宙を飛ぶ。

 エサは頭の上から撒かれ、床に落ちてから食される。

 生きたまま逆さづりにされて30センチおきに流れていく豚は、前脚を広げられてお腹を裂かれるところまで、機械で自動的になされる。
 その前脚を2本ずつ、5秒おきにちょん切っていくのが、ある女性の仕事だ。

 機械で頭を落とされ、腹を割かれて内蔵を吸い出された鮭を、ベルトコンベヤーの上に並べていくのだけが、ある男性の仕事である。

 生きた子豚を仰向けにして固定し、次々と生殖器?をちょん切っていく仕事もある。豚はもちろん、いつまでも耳に残るような悲鳴を上げる。
 だが、もちろん、それが聞こえているようでは仕事にならない。
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 一切の説明や解説もなく、台詞さえもほとんどない(ごく稀にあっても、字幕も吹き替えもない)。
 音楽も効果音もなく、聞こえてくるのはただ、食糧を生産している現実を語る音だけである。

 何をしているのかわからない場面も随所に見られ、刮目すべき映像とともに、退屈さを感じざるをえない場面があるのも確かだ。

 今、映画を見ながらこれを書いている。こんなことをするのは初めてかもしれない。

 だが、それでもやはり、見ておくべき作品だと思う。ただ見ただけで現実の何かが変わるわけではないとしても。 

(Our Daily Bread, 2005 Austria, Germany)