★3度目のギャツビー
『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド)を読んでいる。
記憶にある限り3度目だ。過去2回は挫折している。もっとも、1回目はたぶん中学生時代、わけもわからずに買った『華麗なるギャツビー』なのだが。
今だってわけがわかっているとは到底言えない。
訳者である村上春樹氏にとっては、特別な思い入れのある何ものにも代えがたい小説だというのだが、私にとっては、読み進めるのに苦痛を感じる退屈な小説でしかなかった。
それでも、ムラカミさんがそこまでおっしゃるのならと、3度目?にとりかかっている。
某所に座っているときにしか手にしないので、ほとんど進まない。やっと3章に入って、主人公がそれと知らずにギャツビーと会話を交わすところまで来た。
ギャツビーの微笑みに関する詳細かつ的確な描写がすごい。
だが、相変わらず、全体として何が描かれようとしているのか判然とせず、物語世界を自分の中に作り上げるのに困難を伴う。でも、退屈さは何とか克服できたかもしれない。
それどころか、某所以外でも手にとって読もうかという気がしてきた。
自然散策やブログ更新なんかで忙しく ^^;、まだ実現していないけれど。
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コンビニ弁当の夕食後手に取り、第4章の終わりまで読んだ。物語の半分近くまで進んで、話の核心がやっと明確になってきた。
しかしながら、この小説にとって「核心」とは何なのか。
村上春樹氏が絶賛し、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を」「どうしても1冊だけにしろと言われたら」「やはり迷うことなく」「選ぶ」とまで言う『グレート・ギャツビー』を読みながら痛感するのは、やはり、こういう作品を書く能力も翻訳する能力ももちろんなく、読む能力さえおそらくはない、自身の才能の欠如である。
生産する能力がないのは当然のことと甘んじて受け入れるとしても、消費する能力さえないというのはかなりもの悲しいことだ。
珍しくだれもいない、いつもと同じ露天風呂に身を沈めながら、つくづくとそんなことを思った。