●競争原理主義者
珍しく10時過ぎに帰宅。それが日常、という方も多いのだろう。
仕事で忙しそうにしている家人に負担をかけないよう、インスタントラーメンを作って食べる。ネギを切って入れ、ザルに上がっていた茹でたブロッコリーを5つ放り込む。
あと、ピザ屋から配達されていた小さいチキンの唐揚げをふたつ。
デザート?には、有機?野菜の宅配で来たデラウェア。
その辺のスーパーでは売っていないおいしさに、ちょっと感動してむさぼり食う。
家人が2階に上がってきたので、「珍しく2日間で1週間分ぐらい働いた」というと、「私なんか、毎日・・・」と言っていた。
確かに。
(あ、別に、トゲのある会話ではありません)
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夕刊に目を落とすと、橋下徹大阪府知事に関する連載コラムの2回目。
「「人生は競争」原動力に」という見出し。
「文化や芸術にしても、残るものと残らないものの違いは本人の必死さ。黙っていてもお金がもらえるような組織は死ぬ思いをしていない」というのが橋下氏の「持論」だという。
われわれは「死ぬ思い」で「必死」にならないと「残らない」(残れない)のだろうか。
「死ぬ思い」で「必死」になんかならなくても、何とかなる社会を作ることが大切なように思うのだが。
「死ぬ思い」で「必死」の人だけが「残る」なんて、国家や政府発生以前の「万人の万人に対する闘争」状態である。
氏自身、恵まれない環境の中、激しい競争を勝ち上がってきて今があるそうだ。
だが、凡人からは想像もできないような能力と幸運とで一つの頂点に立った勝者の唱える競争原理主義に、はたしてどれぐらいの人が共感できるのだろうか。
何にせよ、勝てるのはごく一握りなのである。
「死ぬ思い」で「必死」にやっても成功しない人はおそらくごまんといるし、その方が勝者より圧倒的に多いのは周知の事実だろう。
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家人にしても私にしても、ぬるい仕事をちょっと長時間やっているだけだ。ふだんの私は、「長時間」すらクリアしていない。
「死ぬ思い」で「必死」なのは、橋下氏やイチローやビル・ゲイツやシャラポワだけでいい。そこには、ものすごい名声と報酬が約束されているだろうし。
そういうものとは無縁で、ただ「残る」ために「死ぬ思い」で「必死」なのは、野生動物だけで十分である。
野生動物だって、できるものなら何とかしてやりたいぐらいだ。