★諸行無常・・・

 先日、日本最初の職業アクロバットパイロット、ロック岩崎(岩崎貴弘氏)の事故死にあたって追悼文を書いた。

 氏の著書を読むと、具体的な他人の死がいつも身近にあり、自己の死への意識も常に頭の片隅にあったことが読み取れる。いくら「敵」とは交戦しないとはいえ、限界に近い困難な飛行を要求される戦闘機パイロットとしては当然のことだったろう。
 エアロバティック(アクロバット飛行)を始めてからも、それは同じことだったに違いない。そして現実に、F15で戦闘訓練をしているときには生き残った彼も、エアロバティックで命を落としている。

 おそらくはふつうの人よりも死の可能性に怯えている私は、自分が操縦する機がごく平和に離陸するときでさえ、脚が滑走路を離れた瞬間から、生きて地面を踏めない可能性を意識する。
 いや、たとえば「明日飛ぼう」と思ったときから、微妙に不安な気持ちが脳裏を掠める。もちろん、その種の「予感」は予定調和的に外れ、何事もなく滑走路に帰ってくるのが常だ。少なくともこれまでは。

 バイクを運転しているとき、自転車に乗っているとき、歩いているときには、この順に、自己の死を意識する。車を運転しているときには、むしろ他人の死を意識する。これら意識が、幸いこれまで事故を起こさなかった理由の一つだろう。
 バイクに乗っていたころは、あわや、という経験も数回あった。若いころ、老人になっても乗り続けようと思っていたバイクを降りた理由はいろいろあるが、恐くなった、というのがもっとも大きいような気がする。
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 だが、人はふつう、列車に乗っているときには自己の死を意識しない。メールを送ったり本を読んだり居眠りしたりしている。あるいは隣人との会話や車窓の風景を楽しんでいる。
 もちろん、いつ何が起こるかは分からない。しかし、「自分は今、高速で移動中であり、それは本質的に危険を孕んだ行為なのだ」と意識している人はたぶん多くはない。
 列車に乗るとき、たいていは前の方の車両を避けている、変人めいた私でさえ、列車に乗っていて死を意識することは稀だ。

 それでも死は理不尽にわれわれに襲いかかってくる。それは多く、九死に一生を得たと言われる僥倖と紙一重だったりする。

 先ほど日付が変わって昨日となった2005年4月25日には、兵庫県の尼崎駅手前の列車脱線事故以外でも、パリ郊外では観光バスが高速道路から転落して死者が出たし、千葉では発砲事件で2人が死亡しているという。これ以外にも、事件や事故に巻き込まれて亡くなった人は多数いるに違いない。

 入浴中に死亡する人だけで、国内で推計毎日40人程度いるという。交通事故死する人が20人、自殺する人は100人に届こうとしている。繰り返すが、日本国内1日あたりの数字だ。

 1年間なら、そして、理由を問わなければ、死亡する人は国内だけで100人を超えている・・・

 高校の時に、「諸行無常」という言葉を習った。以来、無常観は私の根底を流れ、さまざまな理由とあいまって、人生を楽しむのを邪魔している。だいたい、無常観なんて、生きのいい高校生に教えることかよ。半ば真面目に、それを知らなければ違った人生があるのではないかという気がするぐらいだ。

 だが、たとえ知らなくても、無常は突然、われわれに襲いかかってくる。電車の中で家族にメールを打っているときに。「今日のお昼、何を食べようかなあ」と考えているときに。
 そしておそらく残された誰もが、「きのふけふとは思はざりしを」という古人の嘆きを繰り返すことになってしまうのだ。

 黙祷