◆ヘイトフル・エイト

 久しぶりに映画の紹介。

 エンニオ・モリコーネが音楽を担当する、クエンティン・タランティーノらしい凄惨な映画。サミュエル・L・ジャクソンカート・ラッセルほか。

 ミステリー仕立ての西部劇になっている。あ、西部劇仕立てのミステリーと言うべきか。
 いやむしろ、バイオレンスが中心で、あとはそのための道具立てにすぎないのかもしれない。

 (以下は完全なネタバレなので、これからご覧になる方はお読みにならないことをお勧め致します。)

 映画が終わってからふと気づいて、結局それが一番印象に残ったのだが、映画にちらっとでも出てきたキャラクターは、その全員が劇中で死んでしまった。

 登場人物が数人だというのならそれもわかる。でも、数えてみると20人近いというのに、それがことごとく死んで、映画が終わるのだ。

 こんな映画は記憶にない。おそらく、最初からそうしようと思って製作したのではないかと思う。
 映画になっているが、全部で6章あるうち後ろ4章はいわゆるグランドホテル形式(というより密室劇に近いか)で、舞台で見たいような内容であった。
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 村上春樹が『ノルウェイの森』を書いたとき、初めから登場人物の半分を殺そうと考えていたということを、後にエッセイで語っていた。
 執筆開始時点ではもちろん、誰が死ぬかは決まっていない。

 だが仮に、全員死ぬことを決めてから脚本が書き始められたのなら、物語の可能性の幅はぐっと狭くならざるをえない。

 結局語られるストーリーは一つであったとしても、誰が死ぬかわからず書き始められたストーリーの方が、見る者や読む者にふくらみや余韻(や、ありえた他の可能性)を感じさせるだろうか。

 われわれは、「どの半分が死ぬのだろう?」とか「どういうふうに全員が死んでいくのだろう?」などと思いながらストーリーを追うことはできない。それがお約束だ。

 予備知識なしで鑑賞してなお、両者に違いはあるのか。

 いずれにせよ、作り手の側としては、半分死ぬ方が(そういう言い方が許されるならば)楽しいと思う。

 いや、全員死ぬ方が楽しいのがタランティーノなのかもしれない。

 (The Hateful Eight, 2015 U.S.A.)