●必然的偶然

 このブログの10年は、鳥見を一応の趣味としてきた10年と重なる。

 先日、トイレに置いた本やら雑誌やらを家人にせっつかれて整理させられ、捨てられずに残ったものの置き場を開けるために、本棚に置いていた鳥見関係のパンフ類を泣く泣く捨てた。
 そのまま捨ててしまうのが惜しくなり、いつどこへ行ったかだけをエクセルに記録すると(3時間くらいかかった)、少なくとも200回くらい、鳥見に行っていることがわかった。
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 やっと?仕事に一区切りついたので、伊勢志摩に一泊だけしてきた。神宮に参るのは30年ぶりか40年ぶりかみたいな感じなのだが、あの、五十鈴川で手を洗った場所はここか!というのがわかってちょっと嬉しかった。
 40年近く前にはなかったと思う石段があった。

 驚いたのは、神苑へと渡る宇治橋のたもとの落葉樹に120羽ほどのレンジャクが止まっていたこと。
 最初はスズメかムクドリくらいに思っていたのだが、見事なヒレンジャクの群れである。キレンジャクは確認できなかったが、参拝後にもう一度見ると、それも一定数混じっていた。

 もちろん、というべきなのか、悲しいことに、というべきなのか、そんなものを見ているのは私たち2人だけである。寒風吹きすさぶ平日とは思えないものすごい数の人が行き交う橋の上で、鳥を気にしている人などだれもいない。
 双眼鏡を手にちょっと興奮している奇妙な2人連れを見ても、興味すら示さない善男善女がほとんどだ。

 唯一の例外は、「ムクドリや」「ムクドリ」と言いながら通り過ぎた男性たちだけ。

 いや、ヒレンジャクなんですよ。10年バーディングをやっていても、初めて見る数なんです。
 もちろん、口には出さない。

 そう、レンジャクを見たのは、たぶんまだ5回目くらいだ。そして、100羽を超える数を見るのは初めてである。
 橋を渡っていると、右斜め後ろから群れが私たちを追い越し、左斜め前の木に止まって赤い実を食べ始めた。そして、渡り終えると、またその木を離れてどこかへと飛んでいった。

 神や仏とは無縁の衆生だが、レンジャクたちが神苑へと導いてくれたと思っても罰は当たらないだろう。
 あれだけの人がいる中で、少しでも鳥に注意を払っているのはほんとにわれわれだけだったように思う。

 200回以上、熱心に?鳥を見に行ってもこんな機会には恵まれなかった。

 鳥なんか見ようと思っておらず、したがって一眼レフも持っていないときに偶然、こんなことがあるのだ。
 だが、鳥がいれば少しは気にする心はある。そして、われわれの視力では鳥か葉っぱかもわからないような影をヒレンジャクだと教えてくれる双眼鏡を持ち歩いている。

 やはり、こういう偶然は必然的にしか起こらない。

 別にレンジャクの群れを偶然目にしたからってどうってことはないのだが、迎える準備ができている者にしか幸運は訪れないのも確かだ。

 もっとすごい幸運が訪れるような準備をぜんぜんしていないことが、ちょっと悔やまれるけれど。