■サラの鍵 または アウシュビッツ

 観光シーズンのアウシュビッツは、日中、自由な見学を許していない。

 ぼくらも仕方なくという感じで、ガイドツアーの切符を買った。
 その時は正午をいくらか過ぎていたのだが、まだ昼食を食べていなかった。切符を買うと、十数分後には始まってしまい、食事をする時間はない。その次のツアーはさらに1時間後だったと思う。
 ツアーはどのぐらいかかるのかと窓口で聞くと、面倒くさそうに3時間半だと教えてくれた。終わると4時だ。

 「そんなに長いのなら、途中で何か口に入れられるだろう」と、クッキーやらポテトチップやらを売店で慌てて購入していると、サンドイッチが目に入り、それも買ってレシーバーとヘッドホンを借り出し、集合場所に向かった。

 ところが、ツアーは当然のように「ここは神聖な場所ですから、途中の飲食はご遠慮ください」という言葉から始まるのだった・・・
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 アウシュビッツについて、ここで何か語ろうとは思わない。ただ一つ、思いがけないことがあったので、それを記しておきたい。

Dsc04758_169 アウシュビッツIの見学を終え、2キロほど離れたアウシュビッツ II(ビルケナウ)へ移動してからのことだ(どうでもいいことだが、移動前に何とかサンドイッチが食べられた)。

 より「効率的」に目的を達成するために作られた広大な敷地を、Iのときよりも少し減った二十数人ぐらいで見学する。もうヘッドフォンはつけない。歩く時間も長く、その間にガイドといろいろ話す人も出始めた。
 中に一人、熱心に話している人がいる。ガイドの対応もおざなりではないようだ。

 少し興味が出て、聞くともなく聞いていると、その人のおばあさんがここに連れてこられたときの話が聞こえてきた。

 え?

Dsc04833_169 アウシュビッツ II(ビルケナウ)には、大量のユダヤ人たちを収容所内へ直接「輸送」できるよう、敷地内にまで線路が引き込んである。
 だが、おばあさんからはバスで連れてこられたと聞かされているというのだ。

 「それは何年ごろのことかしら?」
 「ええ、鉄道が引かれたのは○年△月のことだから」

といった会話が続いている。

 その後は、聞くともなくではなく、真剣に聞き始めた。

 まだ少女だったおばあさんは、ここから脱走して近くの病院にかくまわれて生きのびたのだという。

 ここから脱走!

 「彼女が生きのびていなかったら、私は今ここにいませんからね」というようなよくある台詞も、アウシュビッツで脱走者の孫から聞くと、迫力が違う。

 「もしおばあさんが生きてらしたら、もっといろいろお話が聞けたでしょうにね」
 「いや、彼女はまだ元気ですよ。アメリカに住んでいます」
 「あらまあ、それは申し訳ありません。今のうちに彼女からいろいろ聞き取って、本にしたらどうかしら」
 「ええ、私もそれは考えているんですが・・・」

 ぼくだって、そのおばあさんは死んだものだと勝手に思っていた。
 さっきから、あまりにもみんながいろんな殺され方、死に方でこの世からいなくなっていったのを見てきたのだ。もちろん多くはガス室だが、それだけではない。
 ガイドはそれを毎日のように解説している。

 ここでは、生きていることが何だか新鮮に思える。

 でももちろん、少女は今、ぼくの母親ぐらいの年齢のはずだ。それより5歳上の父親だってまだ生きている。
 父親も、グラマンの機銃掃射から逃げた過去を持っている。兵隊としてではなく、ただの少年としてだ。「父親が生きのびていなかったら、私は今・・・」というのは、自分自身のことであるにもかかわらず、軽い冗談ぐらいにしか思っていない。
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 この映画『サラの鍵』のサラも、逃げ出して生きのびた。アウシュビッツに送られる前であるが、両親は送られて殺されている。そして弟は・・・

 生きのびたひとりひとりに、彼のおばあさんのような、そしてサラのような人生がある。そして、殺された数百万人にも、それはあった。

(Elle s'appelait Sarah, 2010 France)

(後記:稀にみる傑作だった。アウシュビッツ見学後、時をおかずして偶然見たからだけではない。)