■GPSの旅

 ウィーンを除けば初めて訪れる場所ばかりだったとはいえ、いつも同じようなことをしているだけの旅だが、今回ひとつ新しいことがあるとすれば、それはGPSを利用したことだろう。

 国内の旅行ではカーナビを使っているが、海外で使ったのは初めてである。ほんとうは3年前のカナダで使うはずだったのだが、ハーツのミスで使えなかったことは以前書いたと思う。
 もっとも、カナディアンロッキーをドライブするのにカーナビはほとんど必要なく、レンタル料がかからなくてむしろラッキーだったのだが。

 カーナビだけではない。

 半年ほど前に手に入れた、GPS機能を持つカメラを常に携帯していて、自分の行動の軌跡をほぼ正確にいつでも再現することが可能になった。

 これを書いているのは北京近郊の中国上空だが、こうして空を飛んでいても、カメラを窓際に置いておけば(薄いので、サンシェードを下の方まで降ろせば挟んで固定しておける)、飛行機の軌跡も後で知ることができる(行くときはそのことに気づいていなかった)。
 (機器が熱くなりすぎないように光を遮るため、昼間は紙などを2〜3枚間に挟んでおいた方がよさそうです。)

 思えば、このカメラを手に入れて以来、国内海外を問わず旅行に出るのは今回が初めてだ。だから、旅の軌跡をGPSで記録するのも初めてということになる。
 「日々旅にして旅を栖・・・」と憧れながら、現実にはべったり定住の暮らしを続けてきて、そんな思いを忘れてしまっていることの証左だろう。

 ともかく・・・

 これまでの旅行では、どこへ行ったかは、かろうじて覚えていたりメモや写真をとっていたりはするものの、「どう」行ったかはあまりわからなかった。

 どんなルートをたどり、そこにはどんな風景が展開したのか。

 点の旅ではなく、せめて線の旅をしたい。そして、できればそれを記憶と記録にとどめたい。
 以前から意識はしていたので、道中の風景をときどきカメラにおさめるようにはしていたのだが、さて実際に写真を見ても、それがどこであったかわかることの方が珍しい。「ボローニャベネチアの間のどこか」みたいな話になってしまう。
 なので、特にデジカメになってからは、道案内の看板を写真に撮ったりして「間」の距離を短くし、なるべく軌跡がたどれるように努力はしていた。

 ところが、GPS付きのカメラで写真を撮ると、ファイルにジオタグが埋め込まれ、その写真が、どこで、どの方向を向いて撮られたかが、一枚一枚わかる仕組みになっている。

 ほんの数年前には考えられなかった夢のような話だ。私のような想像力のない者は、場所がわからないことを不便に感じながらも、そんなことができたらいいなあとすら考えなかった。
 だから、原理的にはそれが可能な時代になっても、実際にだれかが作って使い方を教えてくれるまで、そんなことができるかもしれないことに気づかない。

 今や、インターネットや iPhone(持ってないけど)に代表されるように、実現化した技術や発売された製品を通じて自分が何を求めていたかを教えてもらうような時代になっている。

 「必要は発明の母」というが、これだけ文明が発達してくると、愚か者には何が必要か自体がわからないからである。

 まあ、電話やラジオやテレビだって、似たようなものかもしれないけれど。
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 ネット環境がいいときには、Google Earth と連携させて、その日どこを走ってきたかを地図上に再現して楽しんでいた。

 だがすぐに、その軌跡があまりにも明瞭単純で、ほとんど何の余韻も含みもないことにやや落胆するようになった。

 たとえば、温泉湖のあるハンガリーのヘーヴィーズからブダペストまで、事前には予想もしなかったバラトン湖北岸の一般道ドライブを楽しんだにもかかわらず、地図上に表示されるのは、2つの街を効率的に結ぶ無機質な線だけとなってしまう。カーナビの指示に従って進んでいったのだから当然だ。
 昼食のために丘を登っていったことと、岬の街に寄り道したこととがかろうじて彩りを添えているのが、救いといえば救いである。

 今回の旅行中、「これまでいったいどうやってヨーロッパをドライブしていたんだろう?」と思うことが多かった。
 ケストヘイでもブダペストでもクラクフでもプラハでも、カーナビがなければとてもホテルに辿りつけないような複雑な経路を選んで走っていかねばならなかった(あってもけっこう大変だった)。
 クラクフのアパートメントに至っては、そこに車で乗り付けておいて、「ところで、わたしたちは今どこにいるんでしょうか」と管理人に尋ねる始末である。
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 インターネットを使いつつ進めるヨーロッパの旅も初めてで、前日の夜や当日の朝ホテルで、はなはだしきは当日の午後にサービスエリアでその日の宿を予約して宿泊したりした。
 そうだ、以前は、道中たまたま通りかかったホテルに飛び込みで泊まることがほとんどだったから、「ホテルに辿りつく」こと自体が必要なかったんだ・・・

 偉大な人物たちによるさまざまな発明のお蔭で、旅はどんどん効率的で便利になっていく。
 だが、目の前に引かれた地図上の明瞭な線を見るとき、「あのとき、どこをどう通ってあの風景に巡りあえたんだったっけ?」と、もどかしく思うような経験は失われる。

 これまでずっと、「ああ、あの時、どこを走っていたのか思い出せたらなあ・・・」とか思っていたのだが、今回は逆に、記憶にない道までもが「お前はここを通ったのだ」と主張する。

 だからといって、昔を懐かしんで以前と同じような旅をしようとは思わない。その時点で可能な範囲のテクノロジーを今後も使い続けていくだろう。

 過去も現在も未来も、それぞれに長所短所を持っているのは当然である。

 そして、結局のところ、われわれは少しは未来を選び取ることができるにしても、過去を選び取ることはできないのだ。