◆不孝者

 先日、仕事関係の会合で久しぶりに京都に出た。

 すぐ近くなのに、平均すると年に1〜2回しか行かないのではないかと思う。あ、今年はもう3回目かな?
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 だが、20年ほど前、わけあって毎週のように京都に通っていた時期があった。
 そのころ、よく連れて行っていただいた寿司屋が、百万遍交差点の北西すぐにある。

 数年前にも懐かしくて一度行ったのだが、営業しているふうではなかった。今回も同様だったが、表に出ていた看板が、まごうかたなく、20年前と同じものであることにちょっとした感動を覚えた。

 「げそ 20円」

 値段も変わっていない。「たこ 50円」「いか 60円」と続き、まぐろ、えび、とり貝、はまちは80円だ。

 帰宅してからネットで調べると、営業は夜だけのようである。信じられないことに、今でもこの値段でやっているらしい。

 しかしまあ、そういうものばかり食べればそういう値段になるのかもしれないが、安そうだからと言ってあれやこれやと頼むと、そんなにべらぼうに安いわけではない。
 記憶もおぼろになっているが、4人で行くと1万円台半ばとか、そんな感じではなかったかと思う。

 不確かな記憶を辿ると、ほとんどの場合、ごちそうになっていたような気がする。

 その寿司屋ばかりではない。近辺の小料理屋に行くことも多かった。

 今思えば、当時のあの方も、私と変わらぬ年齢だったろう。

 なにゆえ、どこのだれともわからぬ縁薄き若者に、あれほどよくしてくださったのか。
 幽明界を異にしてしまった今となっては、知りようもない。

 もちろん、ごちそうになっただけではない。そもそもは、夕食前の集まりでいろいろご指導いただくのが目的だったし、遠くへ行かれてから数年後、一緒にこっちで働かないかと声までかけてくださった。
 身に余るありがたいお話ではあったのだが、それはすなわち家人と別々の場所で暮らすことを意味するので、少し考えてお断りさせていただいた。

 どうしてそんなふうに目をかけてくださったのか、わからない。
 おそらくは、橋渡しをしてくださった方のご人徳が大きかったのだろう。
 だが、私本人はといえば、先方のあまりの頭脳明晰ぶりにただただ感動し、翻って我が身の才のなさと努力不足を、若輩者の甘えから、臆面もなくそのまま申し上げたりしていたに過ぎない。
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 何もかも若さのせいにしたくはないけれど、若いというのは恐ろしいもので、あのありがたみがぜんぜんわかっていなかった。
 今だって、わかっているとはとても言えない。

 でも、年齢だけは当時のあの方と同じぐらいになった現在から見ると、あのような偉大な知性(という表現が大袈裟ではない)からごく少人数で個人的な薫陶を受け、仕事の世話までしていただけるような幸運を得ることが、どれほど難しく、ありがたいかが少しはわかるのだ。

 しかも、お寿司や小料理をごちそうになりながら。

 思えば、私は酒も飲めず、酒豪のお相手としても失格であったろうに。
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 早いもので、お亡くなりになってから5年が経つ。調べてみると、なんと明日がご命日だ。

 私のような不孝者がこのタイミングでこういうことを書き綴ることになったのは・・・単なる偶然だろう。

 私は、基本的には神仏や運命を信じない。もし神がいたら、これほど早く、あの方が召されることもなかっただろうし。

 偶然でもいい。せめて明日には黙祷を捧げようと思う。