■今度は母子家庭

 息子が高校に受験の願書を出した。

 自分が高校生の親になるなんて信じられない。いや待てよ、高校生の親になれるんだろうな・・・ なるのは信じられないが、なれないのも困る。

 願書は学校で一斉に書かされたらしいのだが、それを見てちょっとのけぞった。「保護者」の欄に家人の名前が書いてあり、続柄欄にはしっかり「母」と書いてあるのだ。

 いや、もちろん、別に構わないのだが、私(たち)の常識では、これは母子家庭を意味する。私の両親も共働きだったが、保護者欄の名前は当然のように常に父親だった。

 何でも、担任が社会の先生で、父母どちらの名前を書くのかという息子の質問に、「男女共同参画社会なんだからどちらでもいい」とお答えになったのだそうだ。
 そんな質問をするのも、どちらでもいいと言われて母親の名前を書くところも、息子らしくていいのだが・・・

 もともと、うちの家は「標準家庭」ではない(もっとも、今となっては、父親がサラリーマンで母親が専業主婦・子どもが2人、などという家庭がいったい何%あるのか疑問だけれども)。

 まず、家人の方が年上である。住民票の世帯主も家人だ。家の共有持ち分も家人の方が多い。そして、息子は家人の扶養家族になっており、健康保険証も母親と息子で1枚、私だけで1枚である。
 母親の保険証を持って息子を医者に連れて行くたびに、父親である私が好奇の目にさらされているような気がする。
 以前にも書いたとおり、家人は掃除機に触ったことすらほとんどない。洗濯物を干すのもたたむのも、たいていは私だ。

 さまざまな経緯があってそうなったのだが、なるほどこう書いてみると「変な」常識を持った息子が育つのも無理はないかなという気がする。今では(ごくわずかではあるが)家人より私の方が収入は多いのに。

 しかし、実のところ、外では男女平等を唱えながらも(そして内ではそれなりに家事をこなしながらも)、私はやはり、深いところで「家長」という病を抱えている。
 家人と私のどちらがリーダーか、どちらが重要な判断を下すか(また、下すべきか)と問えば、私を含めた家族の3人ともが私だと答えることは間違いない。

 現実に、家人も息子も、日常の細々したことから大きな決断?に至るまで、ほぼあらゆることを私に頼り切っている。時々、半ば真剣に、「これでは死ぬに死ねない」という気がするほどだ。

 男女平等も男女共同参画社会も、お題目を唱えるだけでは浸透しない。私の心の奥底にある(かもしれない)「男子厨房に入らず」「夫唱婦随」などという病は、実態として父親が毎日厨房に入っている男女共同参画「家庭」で育った息子のような者たちによって、初めて克服されるのかもしれない。