■曇りのない眼
息子が「これ、どこがおもしろいん?」といって、新聞に載っている笑い話を持ってくる。
オチは一目瞭然、妻である筆者が買い物に行かず、夫が行くのが日常だという「非常識」である。
これがわからないとはどういうことか、最初はわからなかった。やっぱりアホだからかな?
幸い、そうではなさそうだった。息子には「買い物に行くのは母親の役割だ」という「常識」がないのである(やっぱりアホですか?)。
最近はそんな家庭も増えただろうが、うちの家族はちょっとヘンだ。掃除機を使うのは、99%、夫である私である。別に契約したわけではなく、何となくそうなってきた。
一度、腰を痛めて掃除ができなかったとき、あんまり部屋が汚くなってきたので、妻に「悪いけど掃除してくれへん?」と頼んだことがある。
もちろん?気持ちよく掃除にかかろうとしてくれたのだが、第一声は何と、
「これ、スイッチどこ?」
であった。掃除機購入からその時まで、手を触れたことすらなかったのである。
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息子に、「買い物にはふつう、だれが行くと思ってるん?」と聞くと、「家族3人で」という答。
確かに、買い物は95%ぐらい、家族3人で出かける。息子にとってはそれ以外の買い物は例外的な出来事である。そして、その例外にしても、一人で行くときは私だけということが多い。いわゆる「お使い」である。
そういう家庭に育ってそれが常識だと思うと、冒頭の笑い話のオチはわからない。
笑い話に限らず、学校で教えてくれることや日常生活の知識を積み重ねていく上で、どうやって身についたのかよくわからない「常識」が前提となることがよくある。
われわれ大人はふつう、自分は「常識」とは違う行動を取っていても、世間で常識とされているのは何かということを、だいたいは身につけている。
子どもはそうではない。もしかすると、息子の曇りなき眼から形成された常識は、「掃除はお父さんの仕事、料理はお母さんの仕事、皿洗いは両方の仕事、買い物は家族全員で」なのかもしれない。
世間というものを知らないのだから、当然といえば当然である。だが、もうすぐ義務教育も終わるのだ。こんなことで社会に出られるのだろうか(とりあえず出ないはずだけど)。
それにしても、友達とかと話をして形成される「常識」はないのだろうか。友達が少ないからか、ゲームの話ばかりしているからか、それともやっぱりアホだからかな・・・
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もちろん、息子の目に曇りがないのではない。自分の生まれ育った家庭を基準とするという、非常に歪んだ別の曇りがあるのだ。
それでも、いつも「常識」という曇りガラスを通してものごとを見ることに慣れてしまっていると、違う曇り方を提示されるだけでも目を見開かれる思いがする。