■10年前は学生だった

 阪神淡路大震災から10年だという。考えてみれば、10年前は学生だったのだ(事情省略)。ついこの間のことのような気がするが、さすがに今はもう、自分が学生だという気はしなくなってきた。

 あの朝、ふとんの中でうつらうつらしていた。と、もの凄い爆発音と衝撃。「な、なんやー!」と叫んだのを覚えている。マンションにミサイルが命中したと考えた。「でも一体、誰が? 何のために?」
 伊丹を狙ったミサイルの誤爆かとまで思った。

 一呼吸おいて、大きな揺れが来た。隣の部屋で本箱が倒れる音、台所で食器類が落下する音。やっと地震だとわかったものの、金縛りになったように動けなかった。揺れがおさまりかけてふと見ると、妻が当時2歳の息子の上に覆い被さっていた。「母は強し」と思ったのは、後にも先にもあのときだけだ。

 大阪北部なので、大した被害はない。だが、テレビをつけてもラジオをつけても、「コンビニで商品が2〜3落ちた」だの「けが人の情報は入っておりません」だのと言っている。
 私のような素人でも、これは大変なことになったということがわかった。テレビで流れている被害よりも、自宅の被害の方が大きいのだ。ふつう、そんなことはありえない。

 妻の実家からは、地震後すぐ電話がかかってきた。とりあえず、お互いの無事を確認する。それで急に自分の実家が気になって、電話してみたが通じない。公衆電話の方が通じやすいということは知っていたので、外に出てかけてみることにした。なんと、ネグリジェ姿のおばさんが、今にも泣きそうになりながら電話しようとしている。「大丈夫でしたか」などの会話になった。
「もうお、家の中がぜんっぶ無茶苦茶! どうしたらええのん?」
 もちろん初対面だが、誰かに話したことで堰が切れたようで、半ば錯乱状態になって金切り声を上げている。
「でも、NHKなんかでは、大したことないみたいに言ってましたよね」
「うちに来て、見て欲しいわ! もう、ぜんっぶ、だめっ!」
 後でわかったことだが、同じマンション群に住んでいても、東西に長い棟と南北に長い棟とで相当被害が違ったらしい。私の住んでいた棟は被害の少ない方だったが、それでも本箱は倒れ、鉄筋コンクリートの壁にXクラックが入ったりはした。

 実家への電話はやはり通じない。愛知県に住んでいた兄に電話をする。義姉が出た。
「朝の忙しいときにごめん。地震が来たんやけど、ちょっと普通じゃないねん。そっちは大丈夫やった?」
「え、地震? ぜんぜん」
 明るい声だ。「ちょっと普通じゃない」は通じただろうか。あるいはオレが騒ぎすぎか?
 ともかくも、向こうからも実家に電話して無事を確認してくれるよう頼んだ。

 妻の実家は近くだ。早速駆けつける途中で、ブロック塀が倒れている。家に着くと、屋根瓦の落ちた玄関先で義母が途方に暮れて震えていたりした。

 2日経っても、神戸に住んでいる親戚たちの誰とも連絡がつかない。連絡のついた実家の父と相談の上、私がバイクに乗って様子を見に行くことにした。

 ・・・その経験を書き始めると終わらない。ただ、親類に関して言えば、家が全壊したのが3世帯、軽い被害だったのが1世帯だったと記憶している。避難所の体育館の入り口で親類の名前を叫んだりもしたが、幸いにも、だれも死んだり大けがをしたりはしていなかった(祖母の妹の家は全壊し、避難してすぐぼけ初め、まもなく亡くなったりはした。

              ・・・・・・・

 ほとんど何の被害もなかった私から見ても、実に理不尽なできごとだった。やはり神はいないのだ。ほんとうに残念だけど。
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 (以下、2009.4.4記)

 すみません!! 祖母の妹は2009年ごろまで存命でした。2008年11月に祖母が亡くなり、「後を追うように」亡くなったというのが事実です。もう本人に謝ることもできませんが、「ごめん、おばちゃん、もう死んだと思とった」とはいずれにせよ言えなかったと思います。生死も誤解するなんて、祖母の妹ぐらいになるとほとんど他人なんだなあと身に沁みます。