★来ない魚信を待ちながら

 「釣り糸を垂れて、来ない魚信を待つ経験は、十数年ぶりだ」と何気なく書いたら、「来ない魚信」というフレーズが気に入ってしまった。ありきたりだし、使い古された表現だとは思う一方、なんだか『遠い太鼓』(村上春樹)と似ているような気もして(どこが?)愛着がわいた。

 それで思い出したが、来ない魚信を待つ経験は十数年ぶりではなかった。3年ほど前、イギリスのコッツウォルズ地方に行ったとき、バイブリーという村で釣り糸を垂れたことがあった。
 売っているエサを池に撒くと、川に落ちた不運な水牛に群がるピラニアのようにマスが集まってくる。もの凄い数が水しぶきをあげてエサを奪い合うのだ。

 これなら釣れるかもしれない。いや、絶対に釣れるだろう。だが、「釣った魚はすべてここで食べるか持ち帰ること」という規定におののいた。旅行中のこととて、持って帰れるわけがない。食べると言っても食事は終わったばかりだし・・・ と、だいぶ悩んだ末、息子があまりにせがむので、ままよ、と釣りを始めたのだ。

 だが、もちろん、いらぬ心配だった。まっっったく釣れないのだ。アタリすらない。泳ぎ回るマスが魚影も濃くそこらじゅうに見えるのに、である。周りの人もぜんぜん釣れていない。かなり経ってから近くの人が一匹釣ったのがすべてだったと思う。
 そう、おそらく、エサを撒く池と釣りをする池はつながっておらず、後者にいるマスは、あらかじめたっぷりとエサを与えられているのだろう。満腹の魚を釣るすべはない。
 のんびりしたイギリスの田舎にも、資本主義の厳しさは当然のごとく息づいているのだ。

            ・・・・・

 さきほど、今年最後の日になった。特に変わったことのない平凡な年だったが(平凡すぎるぐらいだ)、このブログがちょうど1年続いたことになる。思えば、ここに何かを書く日々は、来ない魚信を待つような日々であった。
 いやもちろん、どなたをも釣ろうなどとは思っていない。そうではなくて、「おれはこんなところで何をやってるんだろう」というあの感じが似ているのだ。
 決して不幸なのではない。が、楽しいと言えば楽しいし、空しいと言えば空しいあの感じ。反応に期待はするが、反応がなくて当然だよな、というあの感じ。うまく説明はできないけれど。

 何人かのありがたい読者を除けば、だれに読まれているかすらわからない。が、何の反応もいただけなくても、読んでいただいている場合も多いのだろうと、自分を慰めるしかない。にぎわっているブログを見ると羨ましいが、ないものを追い求めるのはやめて、今あるものを大切にしよう・・・ いや、十何年も前から、そう思ってはいるんですけどね(笑)

 ともあれ、今年も終わる。特に楽しいこともないけれど。
 あ、せっかく北部は雪だというのに、スタッドレスに替えそびれたぞ。

 もう一回ぐらい今年最後のご挨拶をするかもしれませんが、とりあえずは、皆様、よいお年を。