●夏炉冬扇

 これから書くこととタイトルとがずれているような気もするのだが、こういうときにでも使わないと、まったく無駄に言葉を覚えているだけのような気がするので使ってみた。
 もしかしたら現実にこんな言葉を使うのは初めてかもしれない。それはともかく・・・

 リビングに、まだ扇風機が鎮座している。

 片付けなければと思いつつ、どんどん冬が近づいてくる。もしかするともう冬かもしれないし、このままだと12月に突入するのは間違いなさそうだ。

 冬扇である(「とうせん」だけだと変換できなかった)。

 何年前かの秋に、「まだ扇風機を片付けていない」という話をすると(毎年の恒例なのかも)、鳥見仲間のお姉様が「うちはもうストーブ出したわ」とおっしゃるので、「ええ? もう出されたんですか? さすがにストーブはまだ要らないでしょう」と申し上げたところ、「何言うてんのん。ストーブ[を]出さな[いと]、扇風機[を]片付けるとこ[ろ]がないねやんか」と言われて妙に納得したのだが、要らないストーブを出してまで扇風機を片付けたいという季節感重視(というか整頓好き?)にはちょっと感心した。

 今年はもう冬も近いので、うちもストーブは出した。それは必要だからで、必要なことはいちおうやるのである。だが、扇風機は別に片付けなくても、邪魔になる以外の支障がないので、一段ハードルが高い。片付け前には掃除もせねばならないし。

 扇風機を片付けられないほど忙しいわけではない。というか、世間の会社勤めの人たちとは比べるのも申し訳ないくらいだと思う。
 それでもやっぱり扇風機が片付かないのは、どこか余裕がないからなのだろう。

 食器を洗ったり洗濯物を畳んだり掃除をしたり・・・は日常的にやっている。というより、やらざるを得ない。
 やりたくもなく、やらなくても何とかなるようなことができるような生活が、精神的に余裕があるということなんだなあと思う。