★すべてを含んだもろもろの全体的な状況

 つい先日、肝臓ガンの母親に付き添って、専門病院を訪れた。

 何より感慨深いのは、患者であふれていること。
 まあ、病院だから当たり前なのだが、とにかくガンしか扱っていない病院で、他の病院から紹介された患者しか来ないため、病人はすべてガン患者なのだ。中には「疑い」的な人もいるかもしれないが、こんなところに来ている時点で、もはやほぼ確定である。
 ただ、病気が病気だけに、私のように付き添いがついている人も多く、「あふれている」人の半分くらいはべつに患者でもガンでもないのだろうとは思う。

 次にちょっと感動したのは、そこでは、ガンがもはやふつうの病気であること。
 誰も特に悲嘆に暮れているようには見えないし、その辺に悲愴感が漂っているわけでもない。
 医者の方も、「重大な疾患を扱っている感」に乏しく、「ガンを告知するという重々しさ」など微塵もない。

 母親のガンは、幸いにも原発性で、小さいのが一つだけなのだが、「肝臓に予備能(≒余力)がないと、手術で1%切除しただけでも死んでしまうことがあります」とか、「肝臓ガンは特殊で、手術しても再発の可能性が60%くらいあります」とか、「再発しなくても肝硬変で亡くなったりすることもあります」などと平気で言う。

 たまたま、私より年上の偉い医者に診ていただいたのだが、意外なほど丁寧で親切な感じだった。診察が終わって待合に戻り、開口一番出た言葉が、「いい先生でよかったなあ」である。そんな医者でも、ガン患者と家族を前にして、淡々と再発や死を口にする。

 まあ、事実だから仕方ないんだろうけれど。
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 ガンを日常のものとして扱っている医療関係者はともかく、患者や家族の心中は実際のところどうなんだろう?

 もちろん、80になる母親が単純なガンだといういい年をした息子と、40の父親が手に負えないガンだという思春期の娘とでは雲泥の差があるだろう。
 しかも、それぞれに、年齢やら病状やら生活やらに還元できない、さまざまな関係性があるはずだ。

 アメリカの医療ドラマを見るのが好きなのだが、そこにはよく、The patient died on the table. というような台詞が出てくる。「患者は手術台の上で(=手術中に)死んだ」という意味だ。
 さすがに母親には言わないが、たとえば家人には、「died on the table みたいなのが一番ええかもしれへんで(いいかもしれないよ)」みたいなことを言ってみたりする。それなりに本気だ。

 でも、不要品処分のような品々を持たされた帰りの車の中で、「なんだか早めの形見分けみたいだなあ」と思いながら、たとえば、中島みゆきさだまさし が「いのち」や「愛」について歌っているのを聞いていたりすると、あるいはまた、何かの拍子に桜の花びらが車に降りかかってきたりすると、不意に目の前がぼやけてくる。

 それは、母親の病気や、死の可能性のことを思ってというよりは、何ともいわくいいがたい、すべてを含んだもろもろの全体的な状況のせいのように感じられた。

 その「状況」には、たとえばシリア難民さえ含まれている。