★追悼茶会

 東京で「約310万人の戦没者」のために「約4700人」が列席して全国戦没者追悼式が行われた15日、京都では1人のために4人が集まり、追悼茶会が催された。

 今春、同じ茶室の同じ位置に片膝を立てて座っていた正客の姿はなく、茶菓子も抹茶もそこに置かれたままである。
 まるでお供え物のようだがまだ中陰、故人は此岸にいて抹茶の前に浮遊しているのかもしれない。
 亡くなったこと自体半信半疑のような申し訳ない精神状態だが、確かにこの部屋に響いたあの声が今日は聞こえないのは事実である。
 それでも、「もうぉ、何をやっとるんや、はよせんかい」というような声がリアルに親しく聞こえてくる気はした。
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 茶会に先立ち、亭主の奥様お心づくしの手料理をいただいた。野菜を中心とした皿が次々と魔法のように現れるのだが、どれもこれも見事な味で、京の料亭が出す「おばんざい」を髣髴とさせるものであった。

 湿っぽい会になったらどうしようと思っていたのだが、故人がいてもいなくても、こうやって集まるとやはり陽気である。
 それぞれひとりになると、ため息をついたり涙を流したり、さまざまに悼んでいる。だがそれも、知人に病状を知らせるなと言い置いて逝った故人の遺志に沿うかどうかはわからない。
 むしろ、まだそこにいらっしゃるかのように、ごくふつうに明るく振る舞うことをお望みかもしれない。

 確かなのは、不帰の客となればお料理も茶菓子も抹茶ももう味わえないということだ。そして、残った者たちの思い出以上には、表情も言葉も増えないということ。
 だが、埋もれた記録や記憶は掘り起こすことができる。そうやって思いを新たにすることこそが故人の供養になるのだと考えるしかない。

 ただ、それとて残された者が彼岸へと渡るまでのことである。
 自分が死んでこれほど悼んでくれる他人がいるのだろうかとふと思った。