★制度的な関係を超えて?

 ここにときおり、「若い友人」とか「若い女性」とかいう人たちが登場する。

 後者の場合、一般的に若い女性を指していることももちろんあるが、これまでの多くの場合も、今から述べるのも、いずれも知り合いの話である。

 そのほとんどは、制度的な関係の人々だ。

 ある目的を持って特定の場所に集まり、交流が生じる。彼我の目的は違うものの、私たちの関係性を支えているのは、背後にある制度である。

 私たちは自由な意思で互いを選び取ったのではない。制度が私たちを引き合わせ、その枠の中でコミュニケーションを交わす。互いに、制度が規定した役割からは出られない。

 だが、何年かに一度、そんな制度的枠組みを取り払ってもいいのではないかと思うときがある。

 ただ、そういう場合にしても、こちらからというのはなかなか困難だ。いや、あちらはあちらで、あちらからの困難を感じていると思う。
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 そんな中、今日は枠組みを取り払いたくなる珍しい日だった。

 ふだん話さないことを話し、言わなくてもいいことを言う。
 出てきた料理の写真を撮ったのは最初だけで、そんなことはすぐに忘れてひたすらしゃべる。もはや、何を食べているのかも定かではない。

 不特定多数ともいうべき人たちに、ここの存在を教えたのも初めてである。

 若い友人たちは、今日の話を聞いて、あるいはここを読んで、私のことをさまざまに理解・誤解するだろう。

 そしてその後、全面的にではないにせよ、いったん取り払われた枠組みは、また確固として甦らざるを得ない。

 しかし、それでもいくぶんか枠組みが柔軟になり、制度的な関係を超えた何かが生じたりするのだろうか?
 これまでの経験からいうと、おそらく生じる可能性は低いし、生じてもごく一時的なものだ。それよりむしろ、弊害のほうが大きかったりするのではないかと恐れる。

 それでも、経験はつねに、新たな経験によって塗り替えられていく可能性を秘めている。

 何ということもない今日の短い時間が、定義不能な新たな関係性を構築するとすれば、その機会を与えてくれた若い友人たちに感謝するばかりである。

 (「今日のことを書いてください」と言われて、自然に出てきたのがこれです。読み返すと何ともはや・・・ですよね。自分でも、「何なのだこれは」と思います。ともあれ、ありがとうございました。とても楽しく過ごせました。素晴らしい休暇とよいお年を。)