●老舗専門店

 大阪を出る時、1輪2輪ほころんでいるという感じの桜が、帰ってくる時には満開だったりすると面白いだろうなあと思っていたのだが、実際に帰ってくると、まだ「ちらほら」という感じだった。

 でもまあ、木によっては五分咲きぐらいのもあって、一応は「しばらく留守にしていた感」を味わうことができた。

 向こうでも少しはニュースを聞いていたので知ってはいたのだが、最低気温が15℃を下回ることがない沖縄にいた間、それ以外の日本はほぼすべて寒波に見舞われていたらしい。

 桜の開花がそれほど進まなかったのは、気温が上がらなかったことが主因だろう。
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 最終日、飛行機が出るまでに少し時間があったので、某老舗専門店に気になるものを見繕いに出かけた。
 何の老舗かを書いた時点で完全に店まで特定されてしまうので、申し訳ないが伏せさせていただく。

 場所もほとんどわからないまま那覇の街をさまよい歩き、これでは見つかるとも思えないなあと考え始めたころ、まるで天啓に導かれたみたいに老舗専門店の看板を見つけた。

 これは何かの縁に違いないと思い、高価な品を買う気満々で店に入って行くと・・・

 老店主はパソコンのワンセグ高校野球を見ていた。
 そう、沖縄代表の興南高校が試合をしていて、ちょうど延長戦に入ったところだったらしい。

 二言三言挨拶のようなものを交わした後、老店主はかまわず野球を見続ける。「まあ、そこに座ってください」と言われて座るものの、実に手持ちぶさたである。

 立ったり座ったりして店の中にある商品なんかを見つつ、試合が終わるのを待つ。
 幸い、というべきだろう、ほどなく沖縄代表が負けてくれて、野球が終わった。

 「残念でしたね」と声はかけたが、肝腎の店主はそれほど残念そうでもない。まあ、残念には違いないのだろうし、事実そうおっしゃるのだが、にこやかな笑顔である。

 「すいませんね、延長戦でもうすぐ試合が終わるところだったので」

 人の良さそうな店主だし、もちろん腹は立たない。
 が、さすがにちょっとあきれた。こういう老舗専門店が他にあるだろうか。

 パソコンに差し込んだワンセグチューナーカードにつないでいた、室内を横断するケーブルやら窓の外に出したアンテナやらを片付けてから、やおら品物を巡る世間話が始まる。
 
 「どんな品をお探しですか」とか「ご予算は?」とかいった会話には一切ならない。
 おそらく、それは老舗専門店の老舗専門店たる所以なのだろう。品物の特性を語ることから始まって、会話をしながらうまく客の思いを汲み取っていこうとしているようだ。

 30分ぐらい、あるいはもしかしたら小一時間も話しただろうか。売る気があるのかないのかもよくわからない。けっこうな高級品が気に入った旨、水を向けても、売りたくないのか、商品を出して見せてくれようともしない。
 かといって、疎んじているとかそういう感じはぜんぜんしない。あくまでも客の気持ちに寄り添いながら、儲けようなどとは思わずに、何でも正直に話してくれているようだ。

 でも、この客にいいのを売っても宝の持ち腐れになりそうだから、品物のためにも客のためにも(後者に重点があることを祈る)、高価な商品は売らないと決めていらしたような気もする。
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 安くはしていただけないみたいだし、最初の野球問題もちょっと引っかかっていた上に、店内が雑然としていたことが決め手になって、ともかく今日のところは買わないで引き上げることにした。

 いつまで続けてもかまわないようなこの会話をどうやって友好的に終わらせようかと考えて、

 「今日はどうもありがとうございました。いろいろ勉強になりました。沖縄にはちょくちょく来るので、もっと勉強して出直してきます」

 と言って店を後にした。もちろん、沖縄に行くのは多くても2〜3年に1度である。
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 それにしても不思議な老舗専門店だった。「やっていけるのか?」という感じはしたが、持ちビルのようだったので、家賃収入だけでも食べていけるのだろうと思う。専門店自体はせいぜい10畳ほどの空間だった。

 電話も2〜3本かかってきたし、最初私を約束の客か何かと間違えていらしたので、本職の方も「上がったり」という感じではないようだ。

 だが、六十代後半と思しき店主に、後継者はおそらくいまい。

 沖縄唯一の老舗専門店は、残念ながら早晩、幕を下ろしてしまうのだろう。
 あの沖縄で、戦前から戦中、米軍占領時代から現在まで、営業を続けてきたというのに。

 激動を生き残った文化も、何でもない時代の文明にこうして滅ぼされていくのである。