●信頼関係

 このブログを一つのきっかけとして、昔の教え子と十数年ぶりに会い、話をしておいしいお菓子をもらい、車に乗って寿司を食べにいった。

 私のいる部屋がわからないという電話がかかってきたので見に行くと、案内板の前に立っている彼女の後ろ姿に出くわした。

 「そこに書いてあるやろ。わかれへんはずないやん」

というところから、少なくとも私にとってはもう、時間の壁はなくなっていた。

 だから、積もる話よりはむしろ、現在の仕事の愚痴なんかを聞いてもらったりすることになってしまって反省している。いろんなことを屈託なく話せる相手に恵まれることはあまりないので、ついいろいろと話してしまうのだ。
 使い捨てドリップのコーヒーが残り2袋になっていたので、この日のために数日間飲まずに残しておきながら、結局コーヒーも淹れそびれた。

 彼女が高校生の時に話したのが最後なのに(後年、行きつけのパスタ屋でたまたま出くわしたことはあるが話はしなかった)、その倍ほどの年齢の女性として話してもまったく違和感がない。単なる一教師と一生徒として短い時間を共有しただけなのに、十年の知己のごとく、という感じがするのも不思議には感じない。

 心配なのは、今の彼女よりさらに数歳若かった私が、教師として彼女からどう見えていたのかということだ。
 そうだ、言い忘れてた。

 あのころのぼくは、今の君よりずっと若かったんですよ。

 教師を辞める時、幼かった彼女から、自分が同じ失敗をしても私の対応が異なる場合があったことへの批判を頂戴した。おっしゃるとおりです。その節はすみませんでした。

 それはともかく、お互いどんな人生を歩んできたかもわからず、どんな人間に変貌しているかもわからず、第一、そもそもあの頃に互いをきちんと知っていたかどうかすらわからないのに、おそらくは確固とした信頼関係があるのはどうしてだろうと思う。
(こっちが一方的に信用してるだけかもしれないけど)

 当時の制度的な出会い、制度内的な関係、その後の私と彼女の経歴や現在の状況、そういう社会的な立ち位置が安心の源流だろうか。

 それとも、制度内的な関係の中であっても、そこで培われたかもしれない人間的な関係がきちんと機能していたからだろうか。
 まあ、平たくいえば、彼女が優秀でいい生徒であり、私がまあ(たぶん)そんなに悪くはない教師であったということなんだけれど。

 ただやはりこうも思う。
 制度的な関係がなければ、私と若い女性の間に信頼関係はなかなか築きにくいのではないか。そもそも、年齢に関わりなく、男性であれ女性であれ、ある程度の信頼感が生じるぐらいの継続的な関係を、制度に縛られないで続ける機会自体がない。

 結局、制度の中で培われた関係が制度の軛から解き放たれた後まで続く時、あるいは、続かなくても、何年もの時を経てふっと甦ったりする時、それが互いを尊重していることの証左なのだろうと思う。