◆「自由」の意味するもの

 2004年にフランスで(間違った呼び方だが)「スカーフ禁止法」が施行された際には、さまざまな論議を呼んだ。

 よく、イスラム教を差別する法律だと誤解?されているようだが、この法律は、「公立の」「初等中等教育の学校で」「宗教色の強いシンボルや服装を禁止する」ための法律である。
 したがって、キリスト教の十字架であっても、目立つものは禁止の対象となる。それは必ずしも、「表向き」や「タテマエ」としてではない。そういう意味がゼロだとは言わないけれど、それよりはむしろ、フランスの政治形態として非常に重要な「ライシテ」(宗教から距離を置く「世俗主義」というニュアンスの政教分離主義)の体現なのだ。

 サッカーのワールドカップなどを見ていてもよくわかるように、フランスはさまざまな人種・民族の混成チームである(この点で、隣の国であるドイツチームと好対照をなす)。
 その多様な人々ひとりひとりが「自由・平等・博愛」を旗印にする国家と契約を結び、「国民」となるのが現代のフランス流だ。それを超越する存在(すなわち宗教)は国家の根本原理と相容れないのである。
 もちろん、信教の自由はある。しかしそれはあくまでも、上記を踏まえた上でのこととなる。

 「自由」世界のリーダーであるフランスが個人の服装に強権を振るうなど、意外なことのようにも感じられるが、フランスの論理では、自由を守るためにこそ禁止するということになってしまうのだ。
 フランスが相当な警察国家だということも、おそらくこのことと関係があると思われる。

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 さて、フランスが宗教的な意味合いを持つシンボルや服装を禁止する以前から、トルコでは公の場でスカーフを着用することが事実上禁じられてきた。
 国民のほとんどがイスラム教徒のトルコであるが、やはり世俗主義政教分離を建国理念とする国として、宗教的嗜好(ひいては政治的志向)を公の場であからさまに表明することは憚られる空気があったということであろう。

 イスラム系政党が政権についたことから、かえって、大学構内でスカーフの着用が禁止されるという逆の方向に向かったのは90年代後半からだということだ。
 これは、世俗主義者たちの政権への抵抗運動の側面を持っている。

 そのスカーフを容認、つまり、服装を「自由化」しようという憲法改正案が先ごろ可決された。スカーフを着用したいという信条を持つ者が大学から閉め出されている現状を改善するため、「法律で明文化されない限り、何人も高等教育から閉め出されない」との一文を加えるなど(『朝日新聞』)、憲法を改正することになったのである。
 その条文自体は、何ら異議を差し挟む余地はない正論のように見える。

 国会では、ほぼ4対1の圧倒的多数で可決されたが、大学人や軍を含め、反対派の動きも激しく、憲法裁判所の判断次第ではこれからどうなるか、予断を許さない。トルコのEU加盟問題へも、微妙に影響するだろう。

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 おもしろいのは、フランスでもトルコでも、表現の自由や思想信条の自由を標榜するはずの人たちこそが、その自由を奪う勢力として活動しているということだ。

 これが日本なら、そういう人たちは、いや、少なくとも私は、大学構内での服装の自由化に反対などしない。反対するも何も、ふつうは既に自由であろう。

 だが、これらの国には、そういう自由を認めることは、より大きな不自由につながりかねないと危惧している自由主義者たちがいるのだ。

 自由主義者が、気楽に「自由でいいじゃん」と言える環境は、自由にしていたのでは得られない。
 しかしながら、自由を奪うような決定は、軽々になされるべきではない。

 「自由」の意味もそれを具現化する方法も、一筋縄ではいかないのである。