◆測られない能力

 測られない能力というものがある。

 嗅覚はその代表的なものだ。その能力に大きな違いがあることはみんな知っている。少なくとも、たとえば人間と犬とで何万倍とも言われる差があることは周知の事実だ。
 しかし、こと人間同士となると、その能力が問題にされることはほとんどない。たまにカジュアルな会話として触れられることはあっても、その性能を真剣に測ろうとする人はふつういないし、だから一般的には、嗅覚というものがどのような能力の集合体であって、したがってどうすればその全貌を測ることができるのかなど、考えもしない。

 聴覚もそうだ。多くの人は、子どものころに一度聴力検査を受けてそれきりであろう。耳の病気になったり高齢になって耳が遠くなったりでもしなければ、日常生活において聴力を測るということはまずない。
 しかも、聴力検査の結果としてわれわれに教えられるのは、「ちゃんと聞こえてますね」というおおざっぱな事実のみである。どのような周波数の音がどの程度の音圧?なら聞き取れるのか程度すら、知らせてはもらえない。視力のような、分かりやすい数値すら示されない。

 航空身体検査を受けるようになって、飛行機の操縦を許可してもらうためには、たとえば視力にしても、遠見視力・中距離視力・近距離視力・両眼視機能・視野・眼球運動・色覚の7項目にわたって測定してもらわなければならないことを知った。
 それでも、最近はやりの動体視力ですら測られないし、おそらく一番肝心な、周囲の状況に応じて見るべきものを決める能力や、実際に見たものをどう統合・評価するかといった能力は、おそらく「視力」として考慮すらされていない。仮に考慮したところで「正しく」測ることができるかどうかは疑問である。

 結局のところ、ほとんど測られない嗅覚にせよ聴覚にせよ、あるいは、しばしば?測られて自分の能力をわかりやすい数値で把握しているつもりになっている視力にせよ、実際のところは、それが全体としてどのような能力なのかが明らかではないし、したがってそれをどう測ればいいのかも簡単ではないということなのだろうと思う。

 そういえば、聴力・視力という言葉はあっても、「嗅力」という言葉はない。職人の技などを知ると、「触力」という言葉もあってしかるべきだと思うのだが、やはりない。「味力」ももちろんない。

 五感だけに限らない。世の中にはむしろ、測られる能力の方が圧倒的に少ないかもしれない。昨今はやりの「老人力」だの「鈍感力」だのと奇を衒わずとも、能力に大きな差異がありながら、それがあまり意識されないものは、いくつもあるのではないだろうか。

 一方で、厳密に測っているつもりで(あるいは少なくともそれを目指していて)、結局のところ何をどう測っているのか非常に曖昧な能力もある。学力がその最たるものであろう。
 そもそも、何を学力と考えるのかにすら明確な合意はない。合意があれば国の教育政策ももっと一貫したものになるはずである。

 にもかかわらず、1点刻みで分類され、人生を左右しかねない選抜に使われるのが学力だ。これは何も、わかりやすい試練に明日さらされる息子のことを思って言うのではない。正確に測っている(少なくとも測りたい)つもりでも、その測る対象すら明確でないまま、因襲的な手法で場当たり的に測られているのが学力なのである。

 ___

 話が逸れてしまった。このエントリを書き始めたそもそもの動機は、昨夕職場を出るときに聞いた、ジョウビタキと思われる小鳥の鳴き声に端を発している。

 早めに仕事を切り上げて職場の建物を出たとき、名前の語源でもあろう「火焚き」のヒッヒッヒッという声が聞こえてきたのだ。たぶん、職場では初めてのことである。
 隣の建物の近くにある木に止まっているらしい。もう薄暗いし、それこそ私の視力では見つけることはできなかったが、音を頼りに近づいていくと鳴き声がやみ、夕闇に紛れて近くを飛び去っていった。
 黒いシルエットしか見えないし、特徴のある飛び方でもないので、その鳥がさっきまで鳴いていたヒタキであろうと推測するしかない。

 私は言語化できない鳥の鳴き声を認識する能力が低い。「ヒッヒッヒッ」だからジョウビタキの鳴き声だとわかるのだが、そういうふうに言葉にできない鳴き声の鳥は、区別することが非常に難しいのだ。
 それに、同じ「ヒッヒッヒッ」に聞こえても、それがルリビタキである場合もある。そして、両者を聞き分ける自信をお持ちの方から、だいたいは可能とおっしゃる方、そして、私のように少なくとも今のところはぜんぜんダメという者まで、その能力には大きな差があるのである。

 そもそも、年をとると(といっても、高周波音の聴力が悪くなるのは20代からだ)高い音が聞こえにくくなったり小さい音が聞き取りにくくなったりするのだが、そういうわかりやすい聴力とは別に、音を聞き分ける能力というのが確かにある。
 音階・音調・音色・・・それが何によるのかはわからないが、びっくりするぐらい、彼我の能力は違うのである。幸い、測られることはないけれど。

 そういえば、外国語を聞いていても、違う音が同じに聞こえる人とちゃんと違う音に聞こえる人がいる。聞こえている物理的な音は違うはずなのに、「同じ音に聞きたい」脳が勝手に変えてしまうのだ。
 あまり意識はされていないかもしれないが、語学学習には、実際には違う音を「ちゃんと」同じに聞くという逆の能力も実は重要だ。日本語の場合、たとえばひらがなの「ん」で表される「同じ」音がいちいち別の何種類もの音に聞こえたりしたら、日本語を学習する場合には面倒である。たとえ、物理的には聞き分けられないはずのない、明らかに異なる音で「ん」が発音されているとしても。

 さて・・・

 私の場合、言語化できない音は記憶もされにくい。そのせいで、鳥の鳴き声がいっこうに覚えられない。まあ、何によらず努力もしていないのだが、そのためばかりではない。
 たとえば、たった1度しか聞いたことのないサンショウクイの鳴き声は、今度聞いたらおそらくそれとわかる。その理由は、その鳥が「ピリリと辛い」「山椒を食った」時のように「ピリリピリリ」と鳴くという点で、名前から鳴き声までが見事に言語化されているからである。

 ところが、音ではなくて香りなら、言語化などされなくても記憶には残り、しかもダイレクトに、ある種の脳内作用と身体作用を引き起こす
 音や香りをその場でどの程度感じられるかという能力とは別に、それを記憶したり必要に応じて思い出したりする能力、さらにはそこから豊かな感情を引き出したりする能力もまた、測られることのない未知の能力である。

 おそらくは、私の音に関する能力は、人並みかそれ以下であろう。だが、匂いに関する能力はどうなのだろう。人一倍、というほどではないにしても、それなりなのだろうか。

 いずれにせよ、その能力の全体像をどう定義し、それをどのように総合的に評価するのかなどを考えると、能力があるのかないのかを考えること自体がばかばかしくなってくる。

 それでも、何らかのモノサシを設け、あるいは単純な優劣として自分の位置を把握したいと思うことがあるのは、数値評価にはなじまないあらゆることを、何としてでも単純な数値に置き換えて理解したがるという世間の風潮に私も毒されてしまっているからかもしれない。

 言語化しないと鳥の声が聞き分けられないとか、単純化しないと理解できた気にならないとか、数値化しないとものごとが見えてこないとかいう人たちは、自分たちのその理解力や評価力の低さを、一度「単純」に「数値化」してみるといい。

 その能力が測られて目の前に提示されたときにはじめて、自分が評価している対象は自分には評価されるべきではないということがやっと見えてくるだろう。

 自戒をこめて。