★愛国「有」罪

 中国における反日デモが収まらない。

 日本政府の要人の中に、侵略された人たちの傷口に塩をすり込んで「それが日本の文化だ」などと開き直っている人たちがいるとしても(その代表が小泉首相なのだから始末が悪い)、やはり現在のヒステリックな暴力沙汰は異常である。一部の節度を欠いた人たちにはぜひ冷静になってもらいたい。

 とりわけ気になるのは、「愛国無罪」のスローガンの下に、無茶が許されると思っている人たちがいるということだ。

 彼らには是非、実は、愛国こそ「有」罪なのだ、ということに気づいてほしい。

 日本の中山文部科学大臣が「『愛国無罪』といえば何でも許されるような愛国主義反日教育の成果が今まさに出ている」と「中国の教育を批判した」という(asahi.com)。

 その中山さんがこの日本において推進したがっているのが、まさに「愛国教育」であるというところが皮肉である。
 中国の「愛国」を「行き過ぎた(あるいは歪んだ)ナショナリズム」と呼び、日本のそれを「健全なナショナリズム」などと呼びたいのだろうが、そんなことを言っても、先方は「その逆だ」と主張するだけである。

 「だれもが自然に抱く、祖国への思い」などという嘘をついて誤魔化さないで、愛「国」心などというものは、近代国家が成立する過程で必要不可欠なものとして人工的に作り上げられてきたという事実を、まず認めるところから始めるべきだ。

 時の為政者に都合がいいように、国家という「想像の共同体」を作り出し維持するためには、たとえば、「宗教」とか「民族」とか「言語」とか「独立宣言」とか「人権宣言」とか「資本主義」とか「社会主義」とか「総統」とか「皇帝」とか「天皇」とか「国旗」とか「国歌」とか・・・、とにかく何らかを「国民」すべてが共有しているのだという幻想を抱かせることが肝要である。為政者は、そのときどきに便利なものを動員して、「愛国」教育をしているに過ぎない。

 もし、「自然に抱く、祖国への思い」というものを持っている人がいるとすれば、まず第一に、それが「自然」なものなのか、次に、それは実は、「祖国」ではなく、「自身」や「家族」や「友人」や「郷土」や「故郷」・・・へのものではないのかと自問してほしい。
 それでもまだ、「自然に抱く、祖国への思い」だ、と考えるなら、「自然に抱く、人類への思い」や、「地球への思い」へと、思いを致してほしい。

 行きすぎであれ、歪んだものであれ、あるいは、「健全」なものであれ、愛国教育や愛国心はすぐれて人工的なものであることを自覚し、必要かもしれないがそれはもしかすると必要悪かもしれないと考える冷静さを持ち、外に向けて発揮されたときには多く「有罪」となる感情であることを知らねばならない。

 かの国でもこの国でも、暴徒から政治家までが無邪気に「愛国」を口にして、それを人に押しつけようとしている現状が、事態をさらなる混迷へと導くのである。