●気がつけば11月

 いつの間にか、鬱々たる気分の中でドタバタし続けた10月が終わった。

 自分にも他人にも、いくつかいいことがあったのだが、全体としての通奏低音というかトーンというかBGMというか・・・が非常に沈んだものであったため、そのありがたみにも鈍感になっていた(考えてみれば、いいことがあるなんて珍しいのに!)。

 特に後半は、ここに何かを書く気力も失せていた。

 そんな中、たぶん確実な「いいこと」が私にもいくつかあったので、その一つをここに記しておきたい。

 半身不随だった(もはや「だった」と言ってもいいと思う)母親が、目に見えて回復しているのだ。数メートルなら杖をついて歩くことができるし、歩行器を使えばいくらでも(というのは大袈裟だが疲れるまで)歩き続けることができそうなくらいだ。
 年が明けてもまだ入院が続く・・・みたいなことを医者は言っているらしいけれど、この回復ぶりはたぶん、手放しで喜んでもいいことなんだろうと思う。

 一方で、そういういいことを目にしても、沈んだ気分の中で受け止めると、たとえば、

・いくら回復しても元に戻るだけ、別にいいことがあったわけではない
・実際には元にまでは戻らない。実家の大改修も必要になりそうだし、今後の生活も思いやられる
・万一元に戻ったとしても所詮は後期高齢者糖尿病は治らないし、今後待っているのは、また新たな病気とか怪我とか寝たきりとか死とかであって、明るい未来の展望などない
というふうにネガティブな解釈になってしまう。

 その他のいいことに関しても、似たようなものだ。

 まあ、もうしばらく我慢すれば、とりあえずこの鬱々とした状況からは脱出できると思う。
 その後もまた、ぱっとしない日常の中、いろいろとストレスのたまることが重なり続けることに変わりはないだろうが、先月のような(というか今も続いている)「嫌な感じ」からは少しは逃れられるはずだ。

 良いこと悪いことにかかわらず、つねにダウナー気味なのは性格のせいだと思い定めてたぶん二十年以上になるが、たとえば学生のころや最初の職場にいたころもこうだったろうかと最近思う。

 「だから言ったじゃない」と呪いをかける奥さんではなく、「ものごとのいい面を見ようよ」という村上春樹になりたいのだが、なかなか難しい。

 たとえば「認知行動療法」とか言うけれど、そんなもので考え方や性格が実際に変わったりするのだろうか?