◆Player たち
久しぶりに若い人たちと会食する機会があった。
「若い人たち」なんて書いた瞬間に、年を取ったという実感がぐっと迫ってくる。
昨日出張先で、ほんとに幼い子ども(4〜5歳ぐらいか)から、「おじさん」と呼ばれてショックを受けているような自己認識なのに、である。
立ち直ってから、しかしいくら何でも「お兄ちゃん」はないよなあ、と現実に戻る。何せ、相手は息子よりもはるかに幼いのだから。
「おじいさん」と呼ばれなかったことに感謝せねばならないくらいだ。
実際、正月の同窓会では、既に複数の孫を持つ同級生がいたりもした(いくら何でも早すぎると思うけど)。
閑話休題。
近くに座った女性たちは、純粋な眼をきらきらさせて、将来についてだの、国際協力についてだの、留学についてだのと熱っぽく語る。
その美しい善意を挫くのもなあと思いながら、食べていくことだの、NGOやNPOの現実だの、援助の現場の悲惨さだの、世にはびこる官僚制だのについて、言わずもがなのことを言ってしまう。
そうそう、先日、外国人と話していて、われながら気の利いた台詞が口をついて出たので記しておく。
There are only two kinds of people in the world: those who have to serve for bureaucracy and those who have to fight against it...
たとえば国連に入っても、加盟各国や国連そのものの官僚制に奉仕するか、それともそれらと戦いながらやるべきことを進めるかしかない。美しい善意にあふれた人たちにとっては、いずれにしても茨の道である。
そんなことがおぼろげにわかってくると、二十歳前後の夢のある若者を前にして、つい、いらぬことを言ってしまうのだ。
彼女たちは聡明だ。
世の中についても将来についてもきちんと考えている。そして、自分が経験不足で無知であることも知っていて、それを補う努力もしようとしている。
だが、己を振り返ってみて、世の中なんてものが見え始めたのは40歳を迎えるころからではなかったかと考えると、やはりそこには一抹の不安が残るのだ。
いくら人の話を聞こうが本を読もうが、自分の確かな感触として「システム」がわかりはじめるまでに、成人から20年の歳月とそれなりの経験を必要とした。
私が特に無能で愚かであるからばかりではあるまい。
___
あ、こんな話を書きたいのではなかった。
20代後半で高校教師を辞めた理由はさまざまあるが、最も大きなものの1つに、「もう一度 player に戻りたい」というのがあった。
特に大きな不満のない安定した職に就き、結婚もしてマンションも買い、子どももできそうにないとなると(当時は息子が生まれる可能性は限りなくゼロに近かった)、自分はもう人生というゲームから降りてしまっているような気がしていたのだ。
目の前の生徒たちは、ゲームを有利に進めようとがんばっている。
その場を共有している自分の状態は、「人生ゲーム」で早くゴールまで到着してしまい、まだルーレットを回している人たちを横目に見ながら、手持ちぶさたで退屈している状態に似ているなあ・・・なんて思ったりもしていた。
だから仕事を辞めて、またゲームを始めたのだ。といっても、勝つことが目的ではない。楽しそうにゲームをしている人たちの前で退屈しているぐらいなら、もう一度ゲームに参加してみようと思っただけだ。
それに、そんな妙な決断をしたのは、世の中のことが分かりはじめる十数年も前のことなのである。
___
今の仕事だって、たぶん5年ぐらいで辞めるだろうと思っていた。だが、その機会は訪れず、もはや十年をいくつか超えている。辞めることは、もうないかもしれない。
そんなとき、目の前に座った player たちを見て、何だか羨ましいような眩しいような気分になった。
ほとんどの人にとって、ものごとは思ったようには順調に進まない。
でも、彼女たちなら、あるいはうまくいくのかもしれないと、ふとそんな気がした。