◆はじめての夜会(その2)

 (承前)

 中島みゆきの「夜会」に行ってきた。私は「コンサート」の一種だと思っていたのだが、みゆきさんの最後の挨拶によると、コンサートではないようである。

 「夜会」がどういうものなのか、漠然とは知っていた。台詞の大部分を歌で表すオペラのようなものである。
 ところが、私にとっては大きな誤算があった。これはひとえに私に責任があるのだろうし、敬愛する中島みゆきに文句を言うつもりはないのだが・・・

1.劇があまりに前衛的(芸術的? 文学的?)すぎて、ほぼ理解不能である。
2.すべての!歌が聞いたことのない歌で、理解にさらに支障を来す。

 たとえていうなら、歌舞伎を見るよりはるかに、何のことかわからなかった。おそらくは、筋も何もしらない「能」を見ているのと同じぐらい意味不明であった。
 大昔、何の予備知識もなくウィーンでオペラを見たことがあるが(セビリアの理髪師)、何語で上演されていたのかすら思い出せないあのオペラのほうが、まだ見ていて違和感がなかった気がする。

 「夜会」から、私の足りない頭で得られる「理解」は、せいぜい、「人生について、時を重ねるということについて、何かを表現しているんだな」という程度であった。

 実際、休憩の時、ロビーで家人がトイレから帰ってくるのを待っていると、周囲から「何のことかぜんぜんわかれへんかった」というような感想が漏れ聞こえてきた。

 しかしまあ、それでもやはり、「だからだめだ」とか「おもしろくない」とか「来て損した」というようなニュアンスは感じられない。
 それは私も同様である。

 そこに生身の中島みゆきがいて、スピーカを通してであれ、その声が聞こえてくる空間を共有している者としては、それだけで、途中で帰ろうと思ったり、つまらないと思ったりはしない(家人はけっこう(検閲により削除)けれど、それでも私より満足度は高そうであった)。

 だがまあ、というか、だからまあというか、こうも思う。

 この「夜会」、もし中島みゆきが出ていなくてだれか他のキャストだったら、お金をもらっても来ないだろうな、と。
 実際には、ひとり2万円!もして、なおかつ買えたのがラッキーというようなチケットらしいのだが、私には猫に小判、豚に真珠であった。

 それでも・・・(続く)