■ボビー

 死んだ祖母は洋画を見なかった。

 その理由は、「誰が誰やらわからへん」というものだ。

 子供心に「そんなあほな」と思ってバカにしたりもしていたが、おそらくは、50代後半になるまで西洋人の顔を見ることなんてほとんどなかったわけだから、当然かもしれない。

 ちょうど、ぼくたちが犬やら猫やら鳥やらの顔を見分けるのが苦手なのと似ているのだ。西洋人には失礼だけど。

 日本の猿(サル)学が群れのメンバーの顔を見分けて名前をつけることで世界をリードしたのは有名な話だが、鳥の顔だって実は見分けられる。
 もちろんまだまだ修行が足りないけれど、うちで飼っている文鳥が同じ種類の文鳥10羽の中に混じっていても、顔だけで見分ける自信ぐらいはぼくにだってある。

 話が逸れてしまった。

 映画の題名『ボビー』とは、ジョン・F・ケネディの弟で、司法長官・上院議員を歴任し、大統領になるかもしれなかったロバート・F・ケネディの愛称である。

 この映画を見ようと思ったときにぼくが想像していたのは、まったく違う映画だった。ボビーの選挙参謀たちが活躍する政治ドラマのように思っていたのだ。たぶん、新聞の評を読んだだけでそうイメージしたので、責任の幾分かはあの評にあると思う(後記:私の誤解でした。申し訳ありません)。

 実際に映画が描いているのは、当時のアメリカの空気とその中を生きた人々である。

 ボビー本人とはむしろ、ほとんど何の関係もない。もちろん、ボビーがその「空気」の軸になっていて、最後にはそこへと収束していくのかもしれないが、その収束は一気に混迷へと逆転されるし、映画を見ている者の多くはそれを承知している。

 生(なま)の政治が描かれるのは冒頭と中盤と最後のそれぞれ2〜3分ずつだけである。後は要するに、ケネディの選対本部があったロサンジェルスのアンバサダーホテルにいる、ほとんどはケネディとは無縁の人たちの群像劇だ。
 三一致の法則とまではいかないが、場所は動かず、時間が前後したりすることもない。いわゆるグランドホテル形式である。舞台はアンバサダーホテルだけど。

 登場人物は非常に多いのだが、「誰が誰やらわからへん」ということはまったくない。有名な俳優を散りばめているからだけではなく、顔を知らない俳優がたくさんいても、一人一人がくっきりと浮かび上がってくるのだ。
 演技による存在感もさることながら、やはりつくりがうまいのだろう。祖母の血を引いてか、顔を見分ける能力が人に劣る私でも、まったく混乱することはなかった。

 途中、下で仕事をしていた家人が上がってきて「主人公は誰なん?」と聞いた。「主人公っておれへんと思う。いろんな人を並行して描いてるねん。群像劇っていうか・・・」
 実際、最後までそうだった。良くできている。

 この映画で描かれている日に、自分が何をしていたかはもちろん思い出せない。こんなことがあったことすら知りもせず、次の日も元気に?幼稚園に通っていたのだろうか。

 アメリカ人ですらないそんなぼくでも、もしもこんなことがなくて、ロバート・F・ケネディが大統領になっていたら、と夢想してしまう。あるいは、ジョン・F・ケネディが暗殺されていなかったら・・・
 あるいはまた、ジョージ・W・ブッシュではなく、一度は決まったアル・ゴア(『不都合な真実』)が大統領になっていたら、とか。

 もしかすると、このろくでもない世界が少しはマシになっていたのだろうか。せいぜいで、ろくでもなさの起こる場所や時間がずれただけかもしれないけれど。

(Bobby, 2006 U.S.A.)